第一章: 硝子の空と、泣けない少女
爛れる西の空。
見上げる頭上、メキッ、メキッと硬質な破砕音が鳴り響く。
巨大な透明のドームに内側から圧力をかけたように、夕暮れの天蓋を這い回る不気味な亀裂。
屋上のフェンスに背を預け、俺は少し長めの黒髪を無造作に掻き毟った。
息苦しいほどに窮屈な制服のネクタイを乱暴に引き千切り、喉元に生ぬるい夜風を招き入れる。
ひび割れた空の狂気的な光景。それでも、俺の漆黒の瞳には何の光も宿らない。
鼻腔を突くのは、眼下の道路から立ち昇る排気ガスと、背後の病棟から漏れ出す饐えた消毒液の匂い。
重い鉄扉が軋む音。俺は視線を横に滑らせる。
そこに、彼女の姿。
透き通るような白銀の髪が、夕日に染まることなく冷たい月光のような光を放つ。
風に波打つのは、一塵の汚れもない無機質な白い装束。
振り返った彼女の薄青の瞳は、空のヒビをそのまま切り取ったかのように虚ろ。精巧に作られたビスクドール。生命の熱を一切感じさせない存在感。
神城 湊「……危ないぞ。そこから落ちたら、どうなるか分かってるだろ」
星屑 天音「落ちても、同じです。私が笑えば、世界が一つ壊れますから」
風が彼女の銀髪を揺らした。
その瞬間、俺の喉が鳴る。
フェンスの鉄骨を掴む彼女の真っ白な指先が、微かに明滅しているではないか。
ガラス細工のような皮膚の奥で、光の粒がパラパラと崩れ落ちる。星空病(ステラ・シンドローム)。心が揺れ動くたびに肉体が星屑へと変貌し、それと連動して世界の空を砕いていく呪い。
世界を守るため、彼女はあらゆる感情を殺し、自らを空っぽの器に作り変えて生き長らえている。
神城 湊「世界なんて、どうせ最初から壊れてるんだよ」
ぶっきらぼうに吐き捨てる俺。
しかし、視線は彼女の顔から剥がれない。
感情を持たないはずの彼女の瞳の奥、瞬き一つしないその水底に、針の先ほどの微かな揺らぎ。唇の端が、1ミリだけ震えている。
微かな、しかし決定的な「寂しさ」。
こいつを、このまま空っぽで終わらせていいはずがない
俺はフェンスを蹴り、彼女の腕を乱暴に引き寄せる。
驚くほど軽い身体。折れそうな手首。
神城 湊「行くぞ。こんな狭い屋上から、連れ出してやる」
星屑 天音「どこへ……行くのですか」
神城 湊「さあな。少なくとも、この腐った空の下じゃないどこかだ」
彼女の瞳が、ほんの一瞬だけ大きく見開かれる。
直後、上空で耳を劈く破砕音が轟いた。
空のヒビが、また一つ、鋭く枝分かれして伸びていく。終わりの始まりを告げるように。
◇◇◇
第二章: 終わる世界での逃避行
頬を撫でる潮風のベタつく感触。
足元には、波に洗われて丸くなったシーグラスと、どこまでも続く錆びた廃線跡。
海沿いの小さな無人駅を抜け、俺たちはあてもなく歩き続ける。
並んで歩く距離が縮まり、不意に彼女の手の甲が俺の指に触れた。
氷のように冷たい、生命の鼓動を感じさせない皮膚の質感。
俺は立ち止まり、自分の体温を強引に流し込むように、その細く白い指をきつく握り込む。
神城 湊「……冷てぇな、お前」
星屑 天音「……体温を保つ機能が、落ちているのだと思います。離してください、あなたまで冷たくなります」
神城 湊「うるせえ。俺が握りたいから握ってんだよ」
強引に手を引く。彼女からの抵抗はない。
ただ、繋いだ手から伝わる微かな震えだけが、彼女の内に秘められた感情を物語る。
地平線に沈みゆく太陽。海面が黄金色に染め上げられる。
打ち寄せる波の音、遠くで鳴る海鳥の声。
ふと横を見ると、天音の足が止まっていた。
薄青の瞳に、黄金色の波間のきらめきが反射する。
星屑 天音「綺麗……ですね。絵本で読んだ通りです」
その頬が、ほんのりと薄紅色に染まった。
機械のように平坦だった彼女の顔に、微かな、本当に微かな花綻ぶような笑み。
――直後、惨劇は起きる。
ドクン、ドクン
俺と繋いでいないほうの彼女の左腕が、肘から先まで完全に透き通り、眩い星屑となって空中へ散華したのだ。
「っ……!」
痛みに耐えるように、彼女は自らの血が滲むほど下唇を強く噛み締める。
同時に、上空から世界の断末魔のような爆音。
空のヒビが、まるで生き物のように蠢き、不気味な黒い亀裂を四方八方へ撒き散らす。
太陽の光が遮られ、世界が一段階、確実な闇へと沈降する。
星屑 天音「……嬉しいのに、痛いんです。私が心を持つと、世界が……壊れていく」
透き通っていく左腕を押さえ、彼女は無理に無表情を作ろうとする。
二人の距離が縮まるほど、心が通い合うほど、世界は確実に終わりへと近づく。
残酷な現実が、巨大な絶望の塊となって俺の眼前に突きつけられた。
◇◇◇
第三章: 雨の中の決別
冷たい雨が、容赦なくアスファルトを叩きつける。
舌先に触れる雨粒から、土くれと錆の味。
廃遊園地の入り口で、俺たちの行く手を阻むように一つの影。
きっちりと撫でつけた黒髪。冷徹な光を放つ銀縁眼鏡。
雨を弾く細身の黒いトレンチコートを纏い、男は無駄のない動作で傘を傾ける。
政府隔離局エージェント、氷室朔夜。
氷室 朔夜「そこまでだ、神城湊。これ以上、その『世界の爆弾』を連れ回すことは許されない」
神城 湊「……ふざけるな。こいつは爆弾じゃねえ、ただの人間だ!」
氷室 朔夜「無知とは罪だ。彼女が心の底から幸福を感じた瞬間、空のヒビは完全に砕け落ち、人類は滅びる。個人の感情など、世界の存続に比べればチリ芥に等しい」
氷室の言葉が、鋭い氷の刃となって俺の胸を貫いた。
天音が本当の笑顔を取り戻した時、世界が終わる。
俺が彼女に与えようとしているものが、この世界を滅ぼす引き金になるというのか。
神城 湊「そんな……嘘だろ……」
横に立つ天音の顔を見る。
彼女の表情は、出会った頃の完全な無機質に戻っていた。
いや、違う。微かに上下する喉仏、強く握りしめられ、爪が食い込んで血を流す右手の拳。
彼女は、必死に感情を殺し、世界と俺を守ろうとしている。
星屑 天音「……氷室さんの言う通りです。私は、戻ります」
神城 湊「待てよ! お前、それでいいのかよ!」
雨の中、天音は振り返った。
彼女の顔には、無理に作った冷たい、氷のような表情が張り付いている。
唇の端が、微かに引きつる。
星屑 天音「あなたといても、少しも楽しくなかった」
その言葉の裏にある凄絶な痛みを、俺は読み取ることができない。
氷室が彼女の肩を抱き、黒い車の後部座席へと押し込む。
彼女を引き止めようと伸ばした俺の手のひらには、すり抜けた生ぬるい雨水だけが残る。
遠ざかるエンジン音。
砕けかけた空の下、激しい雨の音だけが、立ち尽くす俺の鼓動を掻き消していく。
◇◇◇
第四章: 世界か、君か
視界一面に広がる、無機質な白い壁。
消毒液の匂いさえ存在しない、完全な無菌室。
監視カメラの赤いランプだけが、氷室の冷たい瞳のように彼女を見下ろしている。
ベッドの上で膝を抱える天音の姿が、俺の脳裏に焼き付いて離れない。
ドクン、ドクン、ドクン
心音が耳鳴りとなって頭蓋骨の内側を叩き割る。
俺の命には価値がなく、誰かのために使い潰されるべきだ
かつて病気の妹を救えなかったあの日から、俺は自分にそう言い聞かせて生きてきた。
自己犠牲こそが正義。世界のために、少数の犠牲は仕方ないと。
……ふざけるな。
感情を殺して、空っぽのまま生きながらえる世界に、何の意味がある。
あいつの笑顔を奪ってまで存続する世界なら、そんなものは……!
俺は立ち上がった。
窓枠に掛けていた制服のジャケットを乱暴に引っ掴み、肩に羽織る。
両手を見る。震えは、とうに止まっていた。
夜の闇を切り裂きながら、俺は隔離施設の巨大な鉄扉の前に立つ。
サーチライトの光が、侵入者である俺を容赦なく照らし出す。
警報のサイレンが鳴り響き、武装した警備員たちがワラワラと湧き出してくる。
神城 湊「……どけ」
警棒を振り下ろしてくる男の顎に、容赦なく拳を叩き込む。
骨の軋む感触。手首に走る鈍い痛み。
口の中に広がる血の鉄の味をツバと共に吐き捨てる。
過去のトラウマを、無力だった自分を、今ここで完全に殺す。
どけぇぇぇ!!!
狂ったように叫びながら、俺は施設の最深部へと駆け出す。
世界を敵に回してでも、あの泣けない少女の心を取り戻すために。
◇◇◇
第五章: 光の雪と永遠の笑顔
ハァ、ハァ、ハァ……
全身の筋肉が悲鳴を上げる。
制服は切り裂かれ、額から流れる血が右の視界を赤く染めている。
それでも、俺の足は止まらない。
分厚い防爆扉の電子ロックを、奪った警棒で何度も、何度も叩き割る。
火花が散り、システムがエラー音を吐き出して扉が重々しくスライドした。
そこは、屋上。
崩壊寸前の、黒い亀裂が網の目のように覆い尽くす絶望の空の下。
縁に立つ、白い装束の少女。
神城 湊「天音……!」
振り返った彼女の表情に、微かな驚愕。
星屑 天音「……どうして。来ないでください。もう、空が……」
上空で、ギギギギギ……ッと世界が割れる嫌な音が響く。
ヒビの奥から、破滅を象徴するようなドス黒い光の漏出。
あと一度、彼女の心が揺れれば、この空は完全に崩落する。
氷室 朔夜「そこまでだ!!」
背後から追いついた氷室が、銃口を俺に向ける。
常に冷静だった彼の顔が、焦燥と怒りに歪んでいる。
氷室 朔夜「これ以上近づけば、世界が終わる! 彼女の心を揺さぶるな!」
俺は氷室の銃口を一瞥し、鼻で笑う。
そんなチャチな脅しで、今の俺が止まるわけがない。
俺はよろめく足取りで前へ進み、天音の細い身体を思い切り抱き寄せる。
血と泥にまみれた俺の熱が、冷え切った彼女の体温と混ざり合う。
彼女の白い服に、俺の赤い血が滲む。
彼女の小さな肩が、ビクッ、と跳ねる。
神城 湊「世界なんか壊れてもいい。俺のために泣いて、笑ってくれ!」
喉が引き裂けるほどの叫び。
感情を殺すな! 生きていることを証明しろ!!
天音の瞳孔が、極限まで開く。
限界まで抑圧されていた感情のダムが、音を立てて決壊した。
狂ったように自らの腕を掻き毟り、虚ろだった薄青の瞳から大粒の涙をとめどなく溢れさせる。
頬を伝う熱い雫が、俺の首筋を濡らす。
星屑 天音「……湊、さん……っ、あぁ……っ!」
しゃくり上げるような嗚咽。
そして、彼女の顔に、この世界で一番美しく、心からの満面の笑みが咲き誇る。
――直後、世界が弾けた。
《光の星屑(ステラ・ノヴァ)》
彼女の身体から、太陽すら霞むほどの眩い光の星屑が爆発的に放たれる。
上空のヒビが、凄まじい轟音と共に完全に砕け散った。
氷室が絶望の声を上げ、俺も目を閉じる。
世界が終わる。
……だが。
降り注いだのは、破滅の闇ではなかった。
頬に触れる、温かく、優しい感触。
目を開けると、砕け散った空の欠片が、浄化の光を帯びた「光の雪」となって世界中に降り注いでいる。
黒い亀裂は消え去り、そこには突き抜けるような、果てしなく澄んだ青空。
腕の中にあったはずの重みは、もうない。
彼女は完全に光の星屑となり、この空を浄化するために消滅したのだ。
己の命を代償にして、全霊の愛で世界を救った。
手のひらには、彼女の涙の温もりだけが、永遠の火種のように残っている。
俺は、降り注ぐ光の雪の中で静かに空を見上げる。
視界を滲ませる涙を乱暴に拭い、血にまみれた顔で笑う。
神城 湊「……バカヤロウ。お前の笑顔、最高に綺麗だったじゃねえか」
胸の奥深くに、あいつの永遠の笑顔が刻まれている。
俺は一歩、足を前に踏み出す。
もう、世界は壊れていない。
光り輝く青空の下、俺は前を向いて歩き出す。