第一章: 降灰の聖女と泥濘の空
金色の雪が降る。
手のひらに落ちたそれは、泥に塗れた黒い外套の袖口で淡く発光し、じゅわりと熱を帯びて消滅。
呪いの反動で色素を失った真っ白な髪をかき上げ、ハルト・アマミヤは天を仰ぐ。
疲労が色濃く刻まれた三白眼の黒瞳。そこに映るのは、雲海の彼方で傲慢に輝く不可侵の『聖域』だ。
足元には、油と汚水が混ざり合う最下層スラム『泥濘の街』。
空気を満たすのは、ひどく場違いな甘い匂い。
……銀木犀の香り。
鼻腔の奥を焼くその芳香に、ハルトは奥歯を砕けんばかりに噛み締める。
十年前、はぐれた幼馴染の少女が愛した秋の香り。世界を崩壊から繋ぎ止めるための『システム』。
空から降る美しい金色の灰。聖女として祀り上げられた彼女の命が削り落とされた残滓。
ハルト・アマミヤ「俺の命の使い道は、十年前から決まっている」
血と泥の味がこびりついた唇が、擦れた低い音を紡ぎ出す。
刃こぼれした長剣を握る指先。関節は白く浮き上がり、細かい震えを伴って。
目の前にそびえ立つのは、致死率九十九パーセントとされる天への廃墟『バベルの遺骸』。
登る。ただ、それだけ。
ハルト・アマミヤ「待っていろ、シオン。今度こそ……」
革鎧の継ぎ目をきしませ、泥水溜まりを蹴り上げるハルト。
ドクン、ドクン
心臓に刻み込んだ呪いが、脈打つたびに寿命を啜り上げる音がした。
第二章: 星を喰らう呪いと隻眼の騎士

むせ返るような血と鉄錆の悪臭。それに支配された塔の内部。
剥き出しの鉄骨、散乱する肉片。
壁に背を預け、荒い息を吐くハルト。全身の皮膚の下を這い回る、黒い茨のような文様。
カシム「おいおい、嘘だろ。まさか本当に下から登ってきた馬鹿がいるとはな」
暗がりから響く、酒焼けした荒い声。
現れたのは、無精髭を蓄え、安酒の匂いを漂わせる大柄な男、カシム。
右目を隠す薄汚れた眼帯。かつて栄光の象徴だったはずの聖騎士の銀鎧は見る影もなく錆びつき、その上にボロボロの襤褸布を纏う。
ハルト・アマミヤ「……どけ。あんたにかまっている暇はない」
カシム「馬鹿野郎が。死にに行く奴の背中を押す趣味はねえよ。てめえの身体、もう半分死にかけてんじゃねえか」
ハルトの全身を覆う黒い文様を睨みつける、カシムの残された左目。
寿命を代償に絶大な力を前借りする禁術。
ハルト・アマミヤ「命の半分なんて安いものだ。あいつを……もう一度笑わせることができるなら」
ハルトの喉仏が上下し、三白眼の奥でどす黒い執念の炎が揺らぐ。
その痛々しいまでの眼光に、カシムの眉間が一瞬だけ跳ねた。かつて先代の聖女を見殺しにした己の過去。それが脳裏を掠めた。
突如鳴り響く防衛機構の駆動音。無数の刃を持つ機械兵器が群れをなして迫りくる。
ギガガガガッ!!
ハルト・アマミヤ「……来るぞ」
《星喰いの呪痕・解放》
ハルトの白い髪が逆立ち、黒いオーラが全身から噴き出す。
痛覚の完全遮断。肉を裂かれ、骨がきしむ音すらも無視し、獣のように機械の群れへ突撃するハルト。
空を舞う歯車、飛び散るオイルと自らの鮮血。
舌打ちとともに大剣を抜き放ち、カシムはハルトの背中に続く。
血と鉄の味が口内に広がった。
カシム「クソッ、付き合ってやるよ! 地獄の底までな!」
視界が赤く染まりゆく中。頭上にある重厚な扉だけを、ハルトは見据え続けた。
第三章: 透明な十年と見知らぬ君

分厚い扉が、轟音とともに崩れ落ちた。
最上層『聖域』。
敷き詰められた白大理石が、氷のように冷たくハルトの膝を打つ。
静寂の中、光の粒が舞う神殿の中央。
そこに、彼女はいた。
透き通るような銀糸の長髪。
過酷な儀式のためにあつらえられた豪奢な純白のドレス。手足には、紫電を帯びた見えない魔力の枷。
振り向いた少女の姿は、十年前のあの日から何一つ変わっていない。
十七歳の、可憐なシオン・カグラザカのまま。
ハルト・アマミヤ「……シオン?」
喉の奥から絞り出した声が、震える。
しかし、ハルトを見つめ返す薄紫色の瞳には、決定的な光が欠落。
ひどく虚ろで、焦点を結ばない視線。
シオン・カグラザカ「あなたは……誰、でしょうか? どうして、そんなに傷だらけなのですか?」
時間が、止まる。
最下層と聖域の時間のズレ。ハルトにとっての血みどろの十年は、彼女にとってわずか数ヶ月。
さらに過酷な代償。世界を支える人柱として、彼女は『最も愛する人の記憶』を奪われていた。
目の前に立つ白髪で満身創痍の男が、愛した幼馴染だとは露ほども気づかない。
ハルト・アマミヤ「……っ」
肺の空気が全て搾り取られる感覚。
ハルトは唇から血が滲むほど噛みしめ、込み上げる嗚咽を喉の奥へ呑み込む。
膝をつき、刃こぼれした剣を床に置いた。
ハルト・アマミヤ「……名もなき下層からの、志願騎士だ。あなたの護衛に就く」
シオン・カグラザカ「これが私の役目ですから。どうか、泣かないでください」
シオンの冷たい指先が、ハルトの頬を伝う何かをそっと拭う。
嘘だ。俺に、彼女を救い出す力も未来もない。
それでも、この虚ろな瞳をもう一度輝かせるまで、俺は。
第四章: 崩壊の足音と嘘っぱちの夕焼け

パァァァンッ!!
耳をつんざくガラスの割れる音とともに、引き裂かれる聖域の空。
空間の断裂から音もなく降臨する、漆黒の瞳と白金色の短髪を持つ男。純白の神官服が宙に浮かび、背後の光の輪が回転。
神の代行者、ルキウス。
ルキウス「無駄な抵抗だ。個の感情は、世界の維持において不要なノイズに過ぎない」
抑揚のない冷徹な声が空気を凍らせる。
ルキウスの手が振られるたび、聖域の柱が豆腐のように切り刻まれていく。
ハルト・アマミヤ「近づくなっ!!」
シオンを背に庇い、呪痕を暴走させるハルト。
《限界突破》
黒いオーラが炎のように立ち上り、ルキウスの放つ光の刃と激突。
肉が焦げる匂い。全身の血管が破裂し、皮下出血で肌が紫に染まる。
それでも、ハルトは一歩も引かない。
シオン・カグラザカ「どうして……あなたは、そんなに悲しい目をするの」
シオンの薄紫色の瞳から、理由のわからない涙がポロポロとこぼれ落ちる。
夜の静寂。崩壊の合間の、僅かな休息。
神殿の片隅で、治癒魔法の淡い光をハルトの背中に当てるシオン。
温かい光。
ハルト・アマミヤ「……昔、知っていたやつの話だ。放課後、夕焼けの教室で、そいつはいつも不器用な笑顔を見せて」
シオン・カグラザカ「素敵な人、ですね。その方は、今どこに?」
ハルト・アマミヤ「……もう、遠くへ行ったよ」
作り話のように語る過去の記憶。
すぐ隣にいるのに、永遠に交わらない距離。
微かに香る銀木犀の匂いだけが、かつての世界の残響を告げる。
だが、無情なる結界の崩壊音は、すぐそこまで迫っていた。
第五章: 朝焼けのビー玉
ゴゴゴゴゴゴッ!!!
世界を支える大黒柱が、ルキウスの光の刃によってついに砕け散った。
空が赤黒くひび割れ、大地の泥が逆流を開始。
ルキウスの漆黒の瞳が、無機質に事象を演算した。
ルキウス「システムが崩壊する。対象を完全な人柱として再構築する」
シオン・カグラザカ「私が……私が全てを背負えば、誰も悲しまない」
シオンの全身が光に包まれ、透明になりかける。
しかし、その細い肩を、血に塗れた手が強引に突き飛ばす。
シオン・カグラザカ「っ! 何を……!?」
ハルト・アマミヤ「ふざけるな。お前一人が犠牲になる世界なんて、俺がぶっ壊してやる!!」
《魂喰・全開》
限界を超えるハルトの呪痕。光の奔流となって吹き上がる。
自らの魂を代償に、ルキウスの法則そのものをねじ曲げ、新たな人柱としての契約を上書きしていく。
ガガ……ガ……エラー発生……対象の……
ルキウスの仮面のような顔に、初めて微かな歪みが生じる。
足元から金色の灰へと変わっていくハルトの身体。
その閃光の中、シオンの脳内で堅く閉ざされていた記憶の鍵が、音を立てて弾け飛んだ。
夕焼けの教室。温かい紅茶。ガラスのビー玉。
不器用に笑う、黒髪の少年の顔。
シオン・カグラザカ「あ……ぁ……」
瞳孔が開き、喉の奥から空気が漏れる。
シオン・カグラザカ「ハル……君……? ハル君っ!!!」
嫌ああああっ!!!
絶叫が崩壊する世界に響き渡る。
しかし、すでにハルトの肉体は胸元まで光の粒に変わっていた。
振り返ったハルトの顔には、十年前と変わらない、あの不器用な笑顔。
ハルト・アマミヤ「君が笑ってくれるなら……俺の十年は、無駄じゃなかった」
差し出された光の手が、シオンの頬にそっと触れた。
温度のない幻の感触。指先が、彼女の唇を優しくなぞる。
そして、光は完全に弾け、何もかもが消滅した。
◇◇◇
吹き抜ける冷たい風。
全てが終わり、清冽な朝焼けが世界を包み込んでいる。
崩壊は免れ、どこまでも広がる青い空。
静寂の中、シオンは一人、大理石の床に膝をつく。
彼女の両手の中に残されていたのは、小さな、透明なガラスのビー玉だけ。
シオン・カグラザカ「……ありがとう、ハル君」
薄紫色の瞳から一滴の雫が零れ、ビー玉の表面でキラリと朝日に反射。
彼女はそれを胸の奥深くに強く抱きしめる。
彼が守り抜いたこの世界で、生きていく。
風に乗って、ほのかな銀木犀の香りが、優しく彼女の髪を撫でていった。