第1章:生と死の境界線で交わされる、狂気と冷徹の取引

頭上から降り注ぐ激しい豪雨が、コンクリートの屋上を乱暴に叩きつけていた。
バチバチと耳を劈く硬い音が、灰色の世界を支配している。
刺すような冷たい水滴が、首筋を伝って制服の襟元を濡らしていく。
じわじわと体温を奪っていく、凍えるような湿気。
死の匂いに似た、濡れたコンクリートの悪臭が鼻腔を突いた。
椎名 灯は、地上二十メートルの境界線に立っていた。
錆びついたフェンスの外側。
足を乗せるための、わずか数十センチのコンクリートの剥げかかった足場。
スニーカーの底が、濡れた苔の上で微かに滑る。
つま先の下には、暗渠のように口を開けるアスファルトの闇が、ただ沈黙して彼女を誘っていた。
落ちれば、一瞬で終わる。
硬い地面が、肉と骨を容赦なく砕く光景が、妙にリアルな実感を伴って脳裏に浮かび上がる。
肩にかかるダークブラウンの濡れた髪が、強風に煽られて頬にべったりと張り付いた。
大きめの黒いパーカーが水を吸って重くのしかかり、その重みが彼女の細い身体をさらに小さく、脆いものに見せる。
震える手首。
そこに巻かれた黒いリストバンドだけが、彼女をこの世に繋ぎ止めている唯一の境界線だった。
鉄格子の向こう側。
雨を遮る傘も持たず、男が一人、静かに佇んでいる。
九条 怜治。
仕立ての良い黒いスリーピーススーツは、雨に濡れてさらに深い漆黒へと染まっていた。
撥水加工された生地を伝い、大粒の雫が地面に落ちていく。
額に張り付いた細い黒髪の隙間から、氷鉄色をした三白眼が灯を真っ直ぐに見据えていた。
その瞳には、一筋の同情も、焦りもない。
彼は静かに、美しい仕草で、懐から金属製のライターを取り出した。
カチリ。
重厚な金属音が雨音を引き裂き、親指の先で、小さなオレンジ色の火花が爆ぜる。
火をつけられた一本の煙草。
雨の湿気と、獣のような獣脂の匂い。
そして、彼が身にまとう薬品のような消毒液の匂いが、風に乗って灯の鼻先を掠めた。
[A:椎名 灯:怒り]「一歩でも近づいたら、今すぐここから飛び降りてやる」[/A]
灯の掠れた声は、激しい雨音にかき消されそうになりながらも、鋭い棘を孕んでいた。
必死に震えを噛み殺した声。
しかし、怜治の表情には微塵の動揺も浮かばない。
彼は紫煙を細く吐き出し、ただ冷ややかに灯の瞳を見つめ返す。
煙は雨粒に叩かれ、一瞬で虚空へ消えた。
[A:九条 怜治:冷静]「どうぞ。お好きに跳びなさい」[/A]
[A:椎名 灯:驚き]「な……っ」[/A]
あまりに淡々と放たれた言葉に、灯の息が詰まる。
引き留める言葉を期待していたわけではない。
しかし、これほどまでに目の前の命を軽んじる眼差しを、彼女は知らなかった。
[A:九条 怜治:冷静]「ですが、君がそこで肉塊になられると、私のビジネスに支障が出る。君の親族から提示されている私の成功報酬は、税込で三百万円だ。君が死ねば、その額は一銭も入らない」[/A]
怜治は雨に濡れたチェスターコートのポケットに両手を突っ込み、一歩、また一歩と距離を詰める。
革靴が雨水を踏みしめる、硬い音が響く。
その足取りには、自死を前にした人間への焦りも、哀れみも存在しなかった。
ただ淡々と、精緻に管理された機械のような歩調。
[A:九条 怜治:冷静]「私の被るであろう三百万円の損失を、君の死体はどう補填してくれるのですか? まずはその話し合いから始めましょう」[/A]
[A:椎名 灯:怒り]「あんた……本当に最低のクズね。よくそんな顔で、カウンセラーなんて名乗れるわ!」[/A]
灯の奥歯がガタガタと音を立てて鳴る。
寒さのせいではない。
目の前にいる男の、人間性を放棄したかのような「冷酷さ」に対する、生理的な拒絶だった。
この男こそが、三年前、最愛の姉である椎名 葵を死に追いやった張本人。
姉の遺品に残されていた、あの名前。
黒い手帳の隅に、殴り書きされた歪んだ筆跡。
[Think]見つけた。この男だ。この冷徹な仮面を、絶対に引き剥がしてやる。[/Think]
[A:椎名 灯:怒り]「私の命を、いくらで買い取ってくれるわけ? 三百万円以上の価値が、この命にあるって証明してみせなさいよ!」[/A]
[A:九条 怜治:冷静]「[Impact]命を捨てるなら、私に売却しなさい。[/Impact]その方がよほど有意義だ」[/A]
怜治はフェンスの隙間から、細く強靭な骨格をした右手を伸ばした。
指先には、ペンを握り締め続けたことでできた硬いペンダコがある。
白い皮膚。
青い血管が、冷徹な川のように浮き出ている。
[A:九条 怜治:冷静]「あなたの命の価値を、私に査定させなさい。取引は成立ですか、椎名灯さん」[/A]
灯は唇を血がにじむほど強く噛み締め、その冷たい手のひらを睨みつけた。
ここで死ぬのは簡単だ。
重力に身を任せるだけでいい。
だが、この男を地獄に引きずり下ろさずに終わるなど、到底許されない。
姉の無念を、この男の絶望で贖わせる。
灯は泥にまみれる覚悟で、怜治の手を強く掴んだ。
触れた瞬間,、氷のような冷たさが皮膚を刺す。
その瞬間。
[Flash]急激な力[/Flash]で、灯の細い手首がフェンスの内側へと強引に引きずり戻される。
抵抗する間もない、暴力的な引力。
濡れたコンクリートに膝を激しく打ち付け、鈍い痛みが走る暇もなく、怜治の頑丈な腕が彼女の身体を完全に固定した。
抑え込まれた背中に、彼の胸の硬い感触が伝わる。
耳元で、雨音を切り裂くような低い声が響く。
[A:九条 怜治:冷静][Whisper]「契約成立です。今日から君の命は、私の管理下に置かれる」[/Whisper][/A]
第2章:暴かれる孤独と、傷だらけの仮面劇

シュー、という微かな駆動音。
部屋の隅に置かれた加湿器が、静かに白い霧を吹き出している。
九条怜治のオフィスは、不気味なほど整然としていた。
余計な装飾をすべて排した、コンクリート打ちっぱなしの灰色の壁。
整然と並ぶ、分厚い解剖学書や精神医学の専門書。
生活の匂いはどこにもなく、あるのはかすかな消毒液の匂いと、冷やされた空気だけだ。
灯は大きすぎるパーカーのフードを深く被り、革製のソファに深く腰掛けていた。
濡れた衣類がソファを濡らし、不快な湿り気が太ももにまとわりつく。
目の前には、湯気の立つデミタスカップ。
注がれたのは、漆黒のエスプレッソ。
もちろん、砂糖は入っていない。
一口含むと、舌を刺すような暴力的な苦味が口いっぱいに広がった。
怜治はデスクの後ろで、細い指先を組んで灯を冷たく観察していた。
彼の氷鉄色の瞳が、灯の爪の形、呼吸の深さ、視線のわずかな揺れをスキャンしていく。
まるで、実験動物の数値を測定するかのように。
[A:九条 怜治:冷静]「両親は一週間前から帰宅していない。冷蔵庫の中身は腐敗し、君の胃裏に残っているのは昨日の朝に口にした安価な炭酸飲料のみ。学校での対人関係は皆無。リストバンドの下には、未熟な自傷行為の痕跡が少なくとも三本。……違いますか?」[/A]
[A:椎名 灯:怒り]「……プライバシーの侵害で訴えてやろうか」[/A]
[A:九条 怜治:冷静]「客観的事実を述べたまでです。君の抱える絶望とやらは、極めて凡庸で、ありふれた思春期の自己顕示欲に過ぎない。他者に注目されたいという甘えだ」[/A]
冷徹な言葉の刃が、灯のプライドを無慈悲に切り裂いていく。
言葉の一つ一つが、傷口に塩を塗り込むように痛かった。
灯は膝の上で拳を握り締め、爪が手のひらに食い込む痛みで理性を繋ぎ止めた。
ここで怒りを爆発させれば、この男の思うツボだ。
[A:椎名 灯:怒り]「偉そうに。あんた、他人の心を弄んで楽しいわけ? そんなに自分が完璧だと思ってるんだ」[/A]
灯は立ち上がり、オフィスの中を品定めするようにゆっくりと歩き回った。
怜治の視線が、自分の背後を正確に追っているのを肌で感じる。
ねっとりとした、逃げ場のない視線。
その時、部屋の最奥、最も影になった重厚な棚の上に、不自然なものが置かれているのが見えた。
それは、金属部分が黒ずみ、細かな傷が無数についた古い木製のネジ巻き式オルゴールだった。
[Flash]脳裏に蘇る、姉の部屋の光景。[/Flash]
葵が死ぬ間際まで大切に抱えていたものと、完全に一致するデザイン。
真鍮のストッパー、角が少し欠けた台座。
灯は振り返り、オルゴールを指差して冷たく笑った。
その指先は、微かに震えていた。
[A:椎名 灯:怒り]「ねえ、これ何? あんた、本当は誰かを殺したことがあるんじゃないの? そのカウンセラーっていう綺麗なお面の下に、どんな汚い怪物を隠してるわけ?」[/A]
その瞬間、怜治の美しい指先が一瞬、ピクリと凍りついた。
空気の流動が止まる。
彼の呼吸の周期が、一呼吸分だけ狂う。
灯の「嘘の匂い」を嗅ぎ分ける鼻が、彼の内側から噴き出した、焦燥の匂いを捉えた。
完璧な仮面の下から漏れ出た、泥のような人間臭さ。
[A:九条 怜治:冷静]「私は生かすビジネスをしている。過去のゴミを穿り返す趣味はありません」[/A]
言葉とは裏腹に、彼の深い氷鉄色の三白眼の奥で、暗い激情の火花が爆発するように揺らめいていた。
それは、絶対に触れられたくない禁忌に触れられた、獣の目の光だった。
第3章:深夜の過呼吸。冷徹な男が抱える「嘘」の露呈

[Sensual]
外は、すべてを押し流すかのような激しい嵐が吹き荒れていた。
ゴウゴウと唸る風がビルを揺らし、窓ガラスがビリビリと不快な音を立てて震えている。
時御、強烈な稲光が部屋の白壁を青白く照らし出し、怪物の影のようなコントラストを描き出す。
オフィスに併設された仮眠室。
灯は、貸し出されたベッドの上で膝を抱えていた。
リネンのシーツは糊が効いていて硬く、冷たい。
雷鳴が響くたび、心臓が肋骨の裏側を強く叩き、皮膚の下が粟立つ。
その時、隣の執務室から、かすかな、しかし異常な音が聞こえてきた。
「は、あ……っ、く、ぅ……っ」
それは、獣が喉を引き裂かれた時に漏らすような、押し殺した喘ぎ声だった。
灯はゆっくりとベッドから滑り落ち、裸足のまま、音のする方へと足音を消して近づいた。
床から伝わる冷気が、足の裏を冷やす。
ドアを数センチだけ、細く開ける。
隙間から覗いた光景に、彼女の息が止まった。
そこには、完璧に整えられていたはずの「九条怜治」の、完全に崩壊した姿があった。
仕立ての良いスーツのジャケットは床に乱雑に放り出され、白シャツの第一、第二ボタンは引きちぎられている。
怜治は冷たい床に両膝をつき、自身の喉元を、爪が食い込むほどに掻きむしっていた。
皮膚が赤く裂け、微かに血が滲み出ている。
その氷鉄色の瞳は焦燥と恐怖に染まり、焦点はどこにも合っていない。
虚空を見つめ、何かに怯えるように小刻みに震えていた。
[A:九条 怜治:狂気][Tremble]「は、あ、……離、すな……! 葵……っ! 頼む、手を、離すな……っ!!」[/Tremble][/A]
[Pulse]激しく乱れる呼吸。[/Pulse]
肺に空気が入っていかない。
彼の額からは異常なほどの冷汗が流れ落ち、首筋を伝って胸元を濡らしている。
美しい顔が、まるで内側から引き裂かれるような苦悶に歪んでいた。
いつも灯を「凡庸な絶望」と切り捨てていた男が、今、目の前で、過去の亡霊に首を絞められて窒息しかけている。
灯は、身体が勝手に動くのを止められなかった。
彼への憎しみを一瞬だけ忘れ、床に倒れ込む怜治の傍らに膝をつく。
膝が床に当たる音すら、今の彼には届かない。
[A:椎名 灯:恐怖]「おい、しっかりしろ! おい!」[/A]
灯が彼の濡れた肩に手を触れた、その瞬間。
[A:九条 怜治:狂気][Shout]「あっ……あぁぁっ!」[/Shout][/A]
怜治の細く頑丈な指先が、信じられない力で灯の手首を掴み取った。
それは、まるで泥水に溺れる者が、水面に垂れた細い一本の糸を掴むかのような必死さ。
ギチギチと骨が鳴るほどの、恐ろしい強さ。
彼の皮膚から伝わる熱は、驚くほど冷たく、そして狂おしいほどに震えていた。
爪が灯の皮膚に食い込み、鋭い痛みが走る。
[A:九条 怜治:絶望][Whisper]「いかないでくれ……葵……私を、一人に……」[/Whisper][/A>
[/Sensual]
灯は、その氷のような瞳に、自分の姿が全く映っていないことを理解した。
彼は、三年前のあの日から一歩も前に進めていない。
冷酷な救済者の正体は、傷口から今も血を流し続けている、ただの壊れた子供だった。
その事実に、灯の胸の奥で、暗い悦びと、それを上回る激しい動揺が渦巻いた。
第4章:復讐の裏切りと、残酷な真実の開示

翌朝。
嵐は嘘のように去り、窓からは冷徹なまでの冬の光が差し込んでいた。
光の粒子が、埃っぽい空気の中に浮遊している。
怜治は、いつものように乱れのない黒いスリーピーススーツに身を包み、デスクに座っていた。
昨夜の醜態など、最初から存在しなかったかのような平然とした横顔。
美しく整えられた髪、澄ました視線。
しかし、その手のひらには、自身の爪で傷つけた赤い跡が痛々しく残っていた。
灯はその痕跡を見逃さない。
彼女は怜治の前にゆっくりと歩み寄り、ポケットからくしゃくしゃになった数枚の紙を取り出した。
そして、無言で机の上に叩きつける.
乾いた音が室内に響いた。
それは、探偵の佐々木 宗一郎から、彼女が夜間にピッキング技術を使って彼の事務所から盗み出した、極秘のカルテだった。
[A:椎名 灯:怒り]「これ、何?」[/A]
机の上に散らばったのは、『椎名 葵』のカウンセリング記録。
生々しい文字。
最終ページには、赤字で「治療失敗、投身自殺により終了」と冷酷に記されている。
その文字の筆跡は、間違いなく目の前の男のものだった。
[A:椎名 灯:怒り]「あんたが姉さんを殺したんだ。私をカウンセリングするフリをして、自分は救済者の気取り? 笑わせないでよ。私の自殺未遂はね、あんたをもう一度『救えない絶望』に叩き落として、今度こそ完全に壊してやるための計画だったのよ!」[/A]
灯の叫びが、防音性の高い無機質な部屋にむなしく反響する。
怜治は動かなかった。
ペンを握る手も動かさず、ただ静かに氷鉄色の瞳を閉じ、深く、重い吐息を漏らす。
その表情には、弁明の意志も、驚きすらもなかった。
[A:九条 怜治:冷静]「……その通りです」[/A]
[A:椎名 灯:驚き]「え……?」[/A]
あまりに簡単に認めた男の態度に、灯の肩が揺れる。
[A:九条 怜治:絶望]「私が葵を殺した。あの日、あのビルの屋上で、私は彼女の絶望の深さに恐怖した。一瞬だけ、彼女の手を掴むのを躊躇ったのです。落ちていく彼女の目を見た瞬間、私の身体は硬直した。私の、その一瞬の『無力』と『恐怖』が、彼女を奈落へ落とした」[/A]
怜治が目を開けた時、そこにはいつもの冷徹な仮面はなかった。
むき出しの、血を流す自責の地獄。
彼の声は微かに震え、氷鉄色の瞳は深い闇に沈んでいる。
[A:九条 怜治:絶望]「私は誰も救えない。だから、高額な成功報酬を盾に、自分に『これはビジネスだ』と言い聞かせていただけだ。そうしなければ、私はとっくに狂っていた。君の復讐は、極めて正しい」[/A]
怜治は静かに立ち上がり、灯を真っ直ぐに見据えた。
[A:九条 怜治:冷静]「だが、死ぬことでしか私を罰せないというのなら、君もまた葵と同じ『死者の奴隷』だ」[/A]
その言葉は、灯の胸の最も深い場所を、容赦なく抉り取った。
自分の存在価値をすべて否定されたかのような、激しい衝撃。
第5章:共鳴する傷跡。二人の歪んだ魂の激突

[A:椎名 灯:絶望]「うるさい……うるさい、うるさい!」[/A]
灯は両手で耳を強く塞いだ。
知りたくなかった。
姉の死の真相は、怜治の冷酷な裏切りや悪意などではなく、姉自身の抱えていた底なしの虚無と、この男の「一瞬の弱さ」だったのだ。
そして自分自身の復讐の衝動は、姉を失った寂しさと、自分を一度も見ようとしなかった両親への、幼稚な当てつけに過ぎなかった。
すべてが滑稽で、虚しい。
[A:椎名 灯:絶望]「もうどうでもいい。全部、どうでもいいよ……。姉さんのところに行く」[/A]
灯は踵を返し、ドアへ向かって走り出した。
床を蹴るスニーカーの音が響く。
だが、その進路を、長い影が素早く遮る。
怜治が、灯の両肩を掴んでいた。
細身の身体からは想像もつかない凄まじい力。
彼女の身体を壁に押し付け、激しく揺さぶる。
彼の顔が、かつてないほど近くにあった。
[A:九条 怜治:怒り][Shout]「死なせない! 絶対にだ!」[/Shout][/A]
[A:椎名 灯:怒り]「離せ! あんたに関係ないでしょ!」[/A]
灯は暴れ、彼の胸を拳で叩いた。
だが、怜治の拘束は解けない。
[A:九条 怜治:狂気]「関係ある! 葵は救えなかった……だが、お前は死なせない! これはビジネスではない! 私の、この薄汚い魂の呼吸を止めるな!」[/A]
[Flash]怜治の鉄仮面が完全に崩壊した。[/Flash]
その端正な顔は醜く激情に歪み、氷鉄色の瞳から、大粒の一筋の涙が頬を伝って流れ落ちる。
初めて見る、彼の涙。
それは熱く、冷徹な彼のイメージを全て塗り替えるものだった。
灯の呼吸が止まる。
心臓が破裂しそうなほど脈打つ。
生まれて初めて、誰かが自分という存在を、これほどの剥き出しの熱量で引き留めようとしている。
その生の熱量が、彼女の凍てついた心を内側から爆破するように激しく揺さぶった。
生きたい、と、心の奥底で小さな声が囁く。
しかし、長年培った絶望の慣性は、簡単には止まらない。
[A:椎名 灯:悲しみ]「遅いよ……」[/A]
灯は全身の力を振り絞り、怜治の胸を強く押して手を振り払った。
一瞬の隙。
彼女はドアを乱暴に開け、再び街を包み込み始めた暴風雨の外へと走り出した。
冷たい雨が再び彼女の体を叩く。
彼女の手には、逃げる瞬間に怜治のデスクから掠め取った、あの「屋上の鍵」がしっかりと握られていた。
第6章:泥まみれの救済。雨の廃ビルで掴んだ、もう離さない手

三年前と、全く同じ風が吹き荒れている。
郊外の寂れた廃ビル、その最上階。
手すりの一部が錆びて破壊されたコンクリートの端に、灯は立っていた。
叩きつける暴風雨が彼女の視界を真っ白に奪い、寒さで指先の感覚は完全に消失している。
ガタガタと震える身体。
下を見下ろしても、そこにはただ黒い泥のような闇が広がっているだけだ。
本当に死にたいわけではない。
ただ、この胸を切り裂くような痛みを、どう処理すればいいのか分からない。
誰も、教えてくれなかった。
[Shout]バン!!![/Shout]
背後の、錆びついた非常扉が、乱暴に蹴破られた。
風雨の音に混ざって、金属がひしゃげる凄まじい音が響く。
ゼェ、ゼェ、と獣のような荒い、壊れた呼吸音が聞こえる。
そこに立っていたのは、泥まみれになり、高級なスリーピーススーツがボロボロに裂けた九条怜治だった。
額からは雨水に混ざって、赤い血がだらだらと流れ落ち、彼の白い顔を不気味に彩っている。
途中で転倒したのだろう、全身が汚れに塗れていた。
[A:九条 怜治:絶望][Tremble]「は、あ、灯……!!」[/Tremble][/A]
怜治はフラッシュバックに襲われていた。
目の前の光景が、三年前のあの日と重なる。
過呼吸で激しく上下する胸を押さえ、今にも崩れ落ちそうな足取りで、それでも彼は一歩ずつ、泥を這うようにして灯へ近づく。
[A:九条 怜治:狂気]「頼む……私に、君を救わせてくれ……! 生きて、私を、一生呪い続けろ!」[/A]
その時、一際強い突風が灯の華奢な身体を横から強く押した。
濡れたスニーカーの底が滑る。
足元のコンクリートの角が、脆く崩れ去った。
[Impact]身体が、浮いた。[/Impact]
スローモーションのように、灯の身体が重力に従い、闇に向かって落下していく。
風の音が遠ざかり、世界のすべてが静寂に包まれる。
[Flash]怜治の脳裏で、過去の呪縛が激しく弾け飛んだ。[/Flash]
彼はトラウマを、恐怖を、己の肉体の限界をすべて食い破り、泥まみれのコンクリートを全力で蹴った。
かつて届かなかった、届かせることのできなかったその手を、奈落の底へ向かって全力で伸ばす。
泥まみれの身体が、宙を舞った。
[A:九条 怜治:狂気][Shout]「あぁぁぁぁぁっ!!」[/Shout][/A]
[System]鈍い破裂音。[/System]
激しい雨の中で、怜治の指先が、灯の細い手首を寸前のところで強烈に捉えた。
落下する質量が、彼の右腕に一気にかかる。
コンクリートの縁に、怜治の身体が強く叩きつけられた。
[Impact]ゴキリッ![/Impact]
怜治の右肩の骨が、鈍く、恐ろしい音を立てて外れた。
激痛が彼の脳を直撃する。
だが、彼の指先は、灯の皮膚を、肉を、骨を、ちぎれんばかりの凄まじい力で握りしめたまま、決して離さなかった。
その目は、狂気的なまでの意志で灯を見つめていた。
[A:九条 怜治:狂気][Shout]「離さない……! 絶対に、離すものか……!」[/Shout][/A]
灯は宙吊りのまま、彼を見上げた。
彼の引き裂かれそうな表情、肩から流れる血、そして自分を離さない手の温かさ。
生きたい。
彼女の目から、温かい涙が溢れ出し、雨水と混ざり合って流れていった。
第7章:不器用な生の始まり。別れの朝に交わす、消えない刻印
雨は上がり、雲の隙間から差し込んだ輝かしい朝日が、廃ビルの屋上を白く照らし出していた。
空気は澄み渡り、冷たい風が二人の濡れた肌を優しく撫でる。
屋上の床に、二人の身体が投げ出されていた。
怜治は右肩を不自然な角度に歪ませたまま、コンクリートの壁に背中を預けて荒い息を吐いていた。
その顔は青白く、だがどこか憑き物が落ちたような平穏さがある。
灯はその横で、冷たい床に大の字になって寝転んでいた。
見上げる空は、驚くほど高くて青い。
二人とも、泥にまみれながら、生きている。
灯が、自身の右手首をゆっくりと持ち上げた。
そこには、怜治が狂気的な力で握りしめたことによってできた、鮮烈な五本指の紫色の痣が、まるで消えない刻印のように残っていた。
皮膚の奥が、ズキズキと熱を持って痛む。
[A:椎名 灯:照れ]「ダサい男。……でも、すごく痛い。生きてるって、こんなに痛いんだね」[/A]
灯は泥に汚れた顔のまま、小さく、本当に小さく笑った。
その瞳には、もう絶望の影はなかった。
怜治は脱臼した肩の激痛に耐えながら、端正な口元に、初めて微かな、しかし本物の微笑を浮かべる。
[A:九条 怜治:冷静]「ええ。生きることは、常に痛みを伴うビジネスです」[/A]
数日後。
綺麗に整理整頓されたオフィスで、二人は最後の契約解除の書面にサインを交わした。
ペン先が紙を滑る、サラサラという静かな音が響く。
怜治は、カウンセラーの看板を下ろすことを決めていた。
一から医療を学び直し、自身の「弱さ」と、あの日救えなかった命の重さに正面から向き合うための旅に出るという。
灯は、自分の足で自立して生きていくため、紹介された自立支援施設への入所を決めていた。
もう、誰も憎む必要はなかった。
二人の間に、劇的な和解の言葉も、甘い抱擁もない。
ただ、互いの魂に深く刻まれた「生きろ」という痛みの記憶だけが、これからの暗い道を照らす確固たる道標となっていた。
[A:椎名 灯:冷静]「もう二度と、あんたの不味いエスプレッソを飲むこともないね」[/A]
[A:九条 怜治:冷静]「ええ。私も、君のような手のかかる不良債権は懲り懲りです」[/A]
灯が静かに微笑み、ドアを開けて去っていく。
カチャリ、と閉まるドアの音。
彼女の足取りは、驚くほど軽やかだった。
主を失ったオフィスの、埃一つないデスクの上。
あの日から一度も鳴ることのなかった、傷だらけの古い木製のオルゴール。
そのネジが、誰の手も借りずに、かすかに、しかし確かに美しい音色を奏で始めていた。
それは、失われた過去への鎮魂歌であり、新しく始まる不器用な生のファンファーレだった。