第1章:裏切りの代償

血を流したようなオレンジ色の西日が、教室の床に長く歪な影を焼き付けている。
チョークの粉っぽさと、微かなカビの匂いが混じる生ぬるい空気。
どこからか聞こえてくる吹奏楽部のチューニング音が、奇妙なほど遠く感じられた。
その微温湯のような放課後の静寂の中で、彼女はまるで休日のショッピングの予定でも語るかのように、軽やかに唇を動かした。
サラサラと揺れるショートボブの髪が、夕日に透けて金糸のようにきらめいている。
クリーム色のカーディガンを羽織った、皺一つない清潔な制服姿。
その端正な顔には、いつもの、俺が世界で一番安心できる「完璧な笑顔」がピタリと張り付いていた。
[A:星野 瑠璃:喜び]「私、明日で死ぬから」[/A]
俺は気怠く鼻から息を吐き、ズボンのポケットに両手を深く突っ込んだまま背を向ける。
寝癖のついた黒髪を煩わしく掻き毟り、息苦しさを誤魔化すように制服の襟元を乱暴に緩めた。
半開きの三白眼に映るのは、黒板の隅に書かれた日直の名前。
いつもの、波風の立たない平穏な時間。
たちの悪い冗談に付き合う義理も、気力もない。
[Think]ま、いっか。適当にあしらっておけば、明日にはケロッとしてるだろ。[/Think]
[A:日比野 太陽:冷静]「……あっそ。じゃあ今日の当番、お前一人でよろしくな。俺は帰るわ」[/A]
カツン、と上履きが床を鳴らす。
だが、背後から返ってくるはずの明るい文句は、いつまで経っても聞こえてこない。
代わりに鼓膜を打ったのは、乾いた布が擦れる音。
机の脚が床を滑る、嫌な摩擦音。
そして、アルミ製の窓枠に、何かが乗る乾いた響き。
[A:星野 瑠璃:喜び]「今までありがとうね、太陽」[/A]
声のトーンは、さっきと寸分違わない。
振り返った瞬間。
[Pulse]心臓が肋骨を内側からカチ割るほどの勢いで跳ね上がった。[/Pulse]
開け放たれた四階の窓。
カーテンが風に煽られ、狂ったように宙を舞っている。
瑠璃はすでに窓枠の上に細い両足を乗せ、その華奢な体を、夕暮れの虚空へとゆっくり傾けていた。
突風が彼女のスカートを乱暴に捲り上げる。
眼下では、冷え切った灰色のアスファルトがパックリと口を開け、彼女の柔らかい肉体が叩きつけられるのを待ち構えていた。
[A:日比野 太陽:恐怖][Shout]「おい、待てッ!」[/Shout][/A]
ポケットの中で絡まっていた指を引き千切るように抜き出し、床を蹴り飛ばす。
ドンッ、と腰骨が最前列の机の角に激突した。
鈍い音が響くが、痛覚の信号は脳の途中で焼き切れている。
[Impact]無様に床を這いずり、ただひたすらに、なりふり構わず腕を伸ばす。[/Impact]
風が耳元でジェット機のような轟音を立てていた。
視界の端で、彼女のつま先が窓枠から離れる。
指先が、空を掻く。
間一髪。
手首に巻かれた細いミサンガごと、俺の指が彼女の冷え切った腕を鷲掴みにした。
[Tremble]ギリィッ。[/Tremble]
右肩の関節が外れかけ、嫌な音を立てる。
全身の筋肉が軋み、額から噴き出した冷や汗がポタポタと窓の桟に落ちていった。
肺が酸素を求め、ヒューヒューと情けない音を鳴らす。
[A:日比野 太陽:恐怖][Tremble]「お前、ふざけ……何、やって……!」[/Tremble][/A]
力任せに腕を引き抜き、彼女を窓枠から教室の床へと引きずり下ろす。
ドドン、と二人して床に転がった。
チョークの粉が舞い上がり、むせ返るような匂いが鼻腔を突く。
瑠璃はゆっくりと首を巡らせ、床にへたり込む俺を見下ろした。
そこに、あの愛らしい快活な笑顔はない。
光を一切反射しない、淀みきった漆黒の双眸。
底なしの虚無が、ぽっかりと口を開けて俺の魂を覗き込んでいる。
[Glitch]ゾクリ。[/Glitch]
背筋の真ん中を、巨大な氷の塊が滑り落ちていくような強烈な悪寒。
[A:星野 瑠璃:冷静][Whisper]「……あはっ、冗談だよ」[/Whisper][/A]
パチリ、と彼女が瞬きを一つした直後。
その顔に、再びいつもの「完璧な笑顔」が、まるで接着剤で貼り付けられたようにピタリと戻る。
その異様すぎる落差。
俺は喉の奥が干からび、言葉を失い、ただ犬のように荒い呼吸を繰り返すことしかできない。
張り詰めた空気を切り裂くように、ガララッ、と教室の前扉が乱暴に開け放たれた。
[A:雲母 凪:冷静]「邪魔をしたな。だが、ドアに鍵がかかっていなかったのが非合理的だ」[/A]
抑揚の完全に欠落した、合成音声のような声。
腰まで届く長い銀髪が、教室に吹き込む生ぬるい風にさらさらと揺れる。
透き通るような病的な白い肌。リボンを結ばず、だらしなく開襟にした制服。
細い首には、身の丈に合わない無骨な黒いヘッドホンがかけられている。
転校生の雲母凪は、床で這いつくばる俺と、窓際で微笑む瑠璃を交互に見やり、まるで路傍に転がる石ころでも観察するような目で淡々と呟いた。
[A:雲母 凪:冷静]「飛び降りるなら、落下速度と地面の材質を正確に計算してからにしろ。四階からの自由落下では、致死率が中途半端だぞ」[/A]
第2章:侵食される平穏

[A:雲母 凪:冷静]「死ぬ前に私の荷物持ちをしろ。駅前に新設されたジャンクフード店を視察する」[/A]
先ほどの凍りつくような静寂が、まるで集団幻覚だったかのように。
凪はズカズカと教室に踏み込み、強引に瑠璃の細い腕を掴んだ。
空気を読むという概念の機能が、根本から欠落している。
その暴力的なまでのマイペースさに、瑠璃は瞬きを繰り返し、目を丸くした。
[A:星野 瑠璃:喜び]「えっ? あ、うん……いいよ! 私でよければ!」[/A]
弾むような、愛想のいい声。
俺はまだ小刻みな震えの残る手を持て余し、無言のまま、二人の背中についていくしかなかった。
靴底がリノリウムの床を叩く音だけが、やけに大きく響く。
[A:月見里 朔:喜び]「おっす! なになに、お前らどこ行くの? 俺も混ぜてっしょ!」[/A]
商店街のアーケードの入り口。
夕日を反射して明るく染めた茶髪を揺らしながら合流してきたのは、悪友の朔だった。
だぼっとしたオーバーサイズのパーカーを制服の下に着込み、歩くたびに耳元のシルバーピアスがチャラチャラと鳴る。
彼が持ち前の軽薄な声で場をかき回したことで、空気は完全に「いつもの退屈な放課後」へとすり替わってしまった。
四人で流行りのクレープ屋の列に並ぶ。
焼けた生地と強烈なバニラエッセンスの甘い匂いが、鼻の奥にへばりつく。
[A:星野 瑠璃:喜び]「太陽、チョコバナナでいいよね! 私が買ってくるから、そこで待ってて!」[/A]
[A:日比野 太陽:冷静]「……あ、ああ。サンキュ」[/A]
押し付けられたクレープ。
紙越しの温かさが、手のひらをじんわりと温める。
隣では、凪が揚げたてのフライドポテトを無表情のまま口に運び、直後にピクリと眉間を深く寄せていた。
[A:雲母 凪:悲しみ][Tremble]「……熱い。これは、舌の粘膜を意図的に破壊する兵器か」[/Tremble][/A]
[A:月見里 朔:興奮]「ウケる! お前、すげえクールな顔して猫舌かよ! ま、人生そんなもんっしょ。火傷もスパイスってことで」[/A]
朔が腹を抱えて大げさに笑い、瑠璃もつられて明るい鈴を転がすような声で笑う。
通りを行き交う人々から見れば、ただの仲の良い高校生たちの賑やかな日常風景。
だが。
俺の目には、隣でクレープを頬張る瑠璃の横顔が、ひどくグロテスクで歪なものに見えていた。
完璧な弧を描く口角の上がり方。
瞬きの回数。
声のワントーン高い響き。
すべてが、「太陽が安心する、世話焼きで明るい幼馴染」を演じるための、精巧に作られた皮膚の仮面。
あの四階の窓際で見せた底なしの虚無が、薄皮一枚の下で、どろり、どろりと黒い脈を打って蠢いている。
口の中に押し込んだチョコとバナナの甘さが、まるで泥水を啜っているかのように、ひどく苦く、生臭く感じられた。
胃酸が逆流しそうになるのを、無理やり喉の奥に押し込む。
[Think]……見ないふりをすればいい。やり過ごせる。俺は、誰かの感情に深入りするような面倒事は御免なんだ。[/Think]
自分にそう言い聞かせ、俺は視線を地面のアスファルトへと落とした。
やがて太陽が完全にビル群の陰に沈みかけ、空がどす黒い血のような赤に染まった頃。
人気のない夕暮れの踏切前。
四人の足音だけが、コンクリートに虚しく響いている。
カン、カン、カン、カン……。
甲高い、神経を逆撫でするような赤いランプの点滅音が鳴り始めた。
その単調で不規則なリズムの中で。
先頭を歩いていた凪が、唐突に、ピタリと足を止めた。
振り返る。銀色の髪が、生ぬるい夜風に乗ってふわりと肩から流れる。
感情の抜け落ちたビー玉のような双眸が、瑠璃の顔を真っ直ぐに射抜いた。
[A:雲母 凪:冷静]「非常に興味深いな、星野瑠璃。お前のその、吐き気を催すような作り笑いは……いったい誰のためのものだ?」[/A]
黄色と黒の遮断機が、重々しい音を立てて、ゆっくりと降りていく。
第3章:仮面の崩壊

[Impact]空気が、完全に凍りついた。[/Impact]
電車の接近を知らせる警報音が、耳の奥を突き破るほど大きく鳴り響く。
カン、カン、カン、カン。
瑠璃の顔から、あの完璧な笑顔が、まるで乾燥してひび割れた陶器のように、ボロボロと剥がれ落ちていくのがわかった。
[A:星野 瑠璃:照れ]「……え? 凪ちゃん、何言ってるの? 私、別に……そんな……」[/A]
[A:雲母 凪:冷静]「論理的に破綻している。お前は今日、日比野太陽の視線に合わせて三回、自分の本心を殺した。クレープの味の選択、歩幅の調整、会話の相槌のタイミング。すべてが彼の『平穏』を維持するためだけに、過剰に最適化されている」[/A]
凪の言葉は、麻酔なしで突き立てられる鋭利なメスだった。
躊躇なく、瑠璃の薄い皮膚を切り裂き、その下の膿を暴き出していく。
俺は喉の奥がカラカラに干からび、唾液を飲み込むことすらできない。
[A:日比野 太陽:驚き]「おい、雲母。いい加減にしろ……」[/A]
[A:雲母 凪:冷静]「黙れ。私は観測した事実を述べているだけだ。星野、お前は裏で、他の女子が日比野に近づくのを徹底的に排除しているな? 彼の『波風の立たない日常』を守るという身勝手な大義名分のもと、お前自身の精神的負荷は、とっくに致死量を超えている」[/A]
[Flash]脳裏に、いくつもの不自然な映像がフラッシュバックする。[/Flash]
急に俺と目を合わせなくなった、隣の席の女子。
焼却炉の裏に捨てられていた、見覚えのないパステルカラーの封筒。
そして、俺の前では常に「いい子」でいようとする、瑠璃の異常なまでの明るさ。
俺は、気づいていなかったわけじゃない。
ただ、徹底して見ないふりをしていただけだ。
俺の心地よい無菌室を、彼女が泥水をすすり、血を流しながら守ってくれているという、この上なくグロテスクな真実から。
[A:月見里 朔:悲しみ]「……わりぃ、太陽。俺も、とっくに気づいてた」[/A]
隣に立つ朔が、いつものチャラチャラした態度を完全に消し去り、パーカーのポケットに両手を突っ込んだまま、アスファルトを見つめる。
[A:月見里 朔:冷静]「星野が壊れかけてるのも、お前がその狂気に甘えて、ぬるま湯に浸かってるのも。でも、俺はただの観客だから。舞台の上に上がって、この絶妙なバランスをぶち壊すのが……怖かったんだよ」[/A]
カン、カン、カン、カン。
警報音が、急かすように、責め立てるように鳴り続ける。
瑠璃の細い肩が、小刻みに震え始めた。
彼女は両手で自分の顔を深く覆い隠し、指の隙間から、どろりとした、黒いヘドロのような笑い声を漏らす。
[A:星野 瑠璃:狂気][Tremble]「あはっ……あはははっ! なぁんだ、全部、ぜーんぶバレてたんだ……!」[/Tremble][/A]
バッと顔を上げた彼女の瞳。
そこには、あの窓際の時と同じ、いや、それ以上に昏く煮詰まった狂気が渦巻いていた。
涙の膜で街灯の光を乱反射させながら、彼女は俺を真っ直ぐに睨みつける。
[A:星野 瑠璃:悲しみ][Shout]「太陽が『静かなのが好き』って言うから! 私が全部、邪魔なものは消してあげたのに! 私が我慢して、血を吐いて笑ってれば、太陽はずっと私の隣で笑ってくれるって、そう信じてたのに!」[/Shout][/A]
電車の接近に伴う突風が吹き抜け、彼女の短い髪を荒々しく揺らす。
[A:星野 瑠璃:絶望]「もう、無理だよ。君の隣で、息をするのが……苦しいの」[/A]
肺の奥から血を吐き出すような、凄惨な泣き笑い。
巨大な鉄の塊が、轟音を立てて俺たちの目の前を横切り、すべてを掻き消していった。
第4章:泥だらけの咆哮

ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
電車の通過する凄まじい風圧が、全身を容赦なく叩きつける。
俺は、事勿れ主義を気取っていた。
面倒くさい感情のやり取りから逃げ、一番大切なものから目を背け、安全圏から傍観者を決め込んでいた。
波風を立てない?
違う。俺が波に飲まれるのが怖くて、彼女一人を、冷たく暗い水底に沈めて、その上に蓋をしていただけだ。
奥歯を強く噛み締める。
ギリッ、と嫌な音が鳴り、口の中に錆びた鉄のような血の味が広がった。
[Think]ふざけるな。こんな胸糞の悪い結末、俺が許すかよ。[/Think]
気づけば、俺の足は前に出ていた。
ポケットから手を引き抜き、だらりと下げていた両腕に、筋肉が千切れるほどの力を込める。
[A:日比野 太陽:怒り][Shout]「……っざけんな!」[/Shout][/A]
俺の喉の奥から絞り出された声は、自分でも驚くほど低く、ひび割れ、獣の咆哮のように響いた。
目の前の遮断機が上がりきるより早く。
俺は踏切の前に立つ瑠璃の腕を掴み、強引にこちらへと引き寄せる。
[A:星野 瑠璃:驚き]「え……っ?」[/A]
[Impact]力任せに、その細く折れそうな体を、俺の胸の中へと閉じ込める。[/Impact]
カーディガン越しに伝わる、氷のように冷え切った体温。
怯えた小動物のような小刻みな震え。
鼻腔を突き刺す、彼女の髪の甘いシャンプーの香りと、微かな汗の匂い。
[A:日比野 太陽:怒り][Shout]「俺はお前の完璧な幼馴染なんて求めてねえ! 勝手に我慢して、勝手に狂って、一人で壊れてんじゃねえよ!」[/Shout][/A]
瑠璃が俺の腕の中で激しく暴れ、小さな拳で俺の胸を何度も何度も叩きつけてくる。
ドン、ドン、と鈍い痛みが肋骨に響く。
[A:星野 瑠璃:絶望][Tremble]「離してよ! どうせ太陽も、私のこと気持ち悪いって思ってるんでしょ! こんなドロドロして、真っ黒な私なんて……いらないくせに!」[/Tremble][/A]
[A:日比野 太陽:愛情][Shout]「思ってねえよ! 俺のために我慢するくらいなら、その真っ黒なもん全部ぶっ壊して俺にぶつけろ! 痛えのも、面倒くせえのも、全部俺がこのまま受け止めてやるから!」[/Shout][/A]
綺麗事なんて、一つもない。
泥臭くて、情けなくて、自分勝手で。
それでもこれが、俺の腹の底から引きずり出した、剥き出しの真実だ。
腕の力をさらに強め、彼女の背骨が軋むほどきつく抱きしめる。
やがて、胸を叩いていた彼女の拳の動きがピタリと止まった。
俺の制服の胸元が、じんわりと温かい湿り気を帯びていく。
[A:星野 瑠璃:悲しみ][Shout]「う……あぁぁぁぁっ……!」[/Shout][/A]
瑠璃は俺の制服の背中を強く握りしめ、まるで迷子になった子どものように、声を出して泣きじゃくった。
長年彼女の中に溜め込まれていた、真っ黒で熱いヘドロのような感情が、涙となって俺の胸に染み込んでいく。
背後で、砂利を乱暴に踏む音が聞こえた。
[A:雲母 凪:冷静]「……計算外の変数が生じた。これ以上の観測は無意味だ。撤収する。行くぞ、月見里」[/A]
[A:月見里 朔:照れ]「へいへい。ま、主役の邪魔はしねえよ。せいぜい地獄の底まで、お幸せにな、太陽」[/A]
二人の足音が夜の闇へと遠ざかり、夕日と街灯に照らされた踏切には、俺と瑠璃だけが残された。
肩を激しく震わせる彼女の背中を、ゆっくりと、何度も撫でる。
彼女の嗚咽が少しずつ静まっていくのを感じながら、俺は深い安堵の息を吐き出した。
だが。
彼女の背中を撫でる俺の掌に、微かな、しかし決定的な「異質感」が纏わりついた。
俺の背中の服を掴む、彼女の指の力。
それが先ほどのすがるような弱々しさとは違う、異常なほどの強さで、俺の肉に深く食い込んでいるのだ。
[Think]……なんだ、この感覚は。[/Think]
第5章:新しい日常の始まり
翌朝。
海から吹き込む湿った潮風が、通学路の街路樹をザワザワと揺らしている。
見慣れた灰色のアスファルト、いつものコンビニの看板。
表面上は、昨日までと何も変わらない、退屈な日常の風景が広がっていた。
だが、隣を歩く瑠璃の様子は、決定的に異なっていた。
[Sensual]
彼女の細い両腕が、俺の右腕に、まるで獲物を締め上げる蛇のように深く、執拗に絡みついている。
関節がギリギリと軋むほどの、強烈な力。
腕に押し当てられる胸の柔らかい感触よりも、俺の逃げ道を完全に塞ぎ、細胞の隙間まで侵食してくるようなその密着具合に、背筋の産毛が総毛立つ。
[A:星野 瑠璃:愛情][Whisper]「ねえ、太陽……」[/Whisper][/A]
顔を寄せられ、甘く、湿度を帯びた吐息が、直接耳の粘膜を撫でる。
見下ろした彼女の瞳には、昨日までのあの虚無は、微塵も残っていなかった。
代わりにそこで燃えていたのは、どろりとした暗い熱。
底知れぬ独占欲と、俺のすべてを喰らい尽くそうとする、病的な執着の炎。
[A:星野 瑠璃:狂気][Whisper]「全部ぶつけていいって、昨日、言ってくれたよね? 太陽が、自分でそう言ったんだよ……?」[/Whisper][/A]
[Pulse]ドクン、と首筋の太い脈が跳ね上がる。[/Pulse]
彼女の冷たい指先が、俺の制服の隙間から滑り込み、腹の素肌を直接なぞり上げる。
爪が肉に食い込む微かな痛覚。
[A:星野 瑠璃:愛情][Whisper]「これで、太陽のぜんぶ、私のものだ。心も、時間も、体も、吐く息さえも。もう絶対に……死んでも逃がさないからね」[/Whisper][/A]
ゾクリと、全身の毛穴が全開になるような戦慄。
同時に、脳の髄液がドロドロに溶けていくような、甘く痺れる諦めが俺を満たしていく。
俺が望んだ、あの無菌室のような「波風の立たない平穏」は、完全に死んだ。
その代償として手に入れたのは、彼女の重い命と心を貪り食いながら生きる、この狂気に満ちた、息の詰まるような新しい箱庭だ。
[/Sensual]
[A:日比野 太陽:照れ]「……ああ。好きにしろよ。面倒くせえけどな」[/A]
俺はわざと気怠げにそう返し、ポケットの中で固く握りしめた手に、ギリッと力を込めた。
俺の頬に、瑠璃の冷たくて柔らかい唇が、スタンプを押すように落とされた瞬間。
始業の五分前を知らせるチャイムが、抜けるような青空に高く鳴り響いた。
それはまるで、俺たちが自ら足を踏み入れたこの甘美な地獄の底を祝福する、不気味な教会の鐘の音のようだった。
俺たちはもう、二度と元の浅瀬には戻れない。
息継ぎすら許されない深海で、互いの首を絞め合いながら生きていく。
それで、いい。
俺は目を細め、狂気を孕んだ朝の光の中へと、重い足取りで歩き出した。
彼女の重すぎる愛を、その身に永遠に引きずりながら。
沈黙のあと。
足元に長く伸びる二つの影が、輪郭を失って一つに溶け合い、アスファルトにべっとりとへばりついていた。
それは永遠に剥がれることのない、俺たちの新しい日常の証明だった。