第一章: 血と光の蜜月
黒い針葉樹林の奥深く、陽の光すら拒絶する深い闇の底で、獣の咆哮が地を這う。
ずぶ濡れの泥土を踏みしめる音に混じり、ごとり、と重苦しい金属の擦れ合う音が響いた。
直後、強靭な鉤爪が空気を引き裂き、鉄の鎧ごと肉を深く抉り去る。
肉が裂け、骨が軋みながら砕ける湿った破砕音が、静寂の森に染み込んでいった。
エルシド・アズラエルは、自らに迫る魔獣の牙を避ける素振りすら見せようとしない。
むしろ、漆黒の乱れ髪を容赦なく振り乱し、死人のように白い肌へと新たな深紅の筋を刻み込んでいく。
重厚な黒鉄の鎧は、その隙間をあえて晒すように、歪に歪められていた。
敵の凶刃を自らの生身へと誘い、吸い込ませるための、狂気的な隙。
もっとだ、もっと深く私を刻んでくれ。この渇きを、皮膚の裏側を焼き尽くす乾きを癒すために、もっと赤く私を染めてくれ
切り裂かれた左肩の奥深くから、どくどくと奔流となって溢れ出る血が、氷のように冷たい泥土をみるみる赤黒く染め上げていく。
無敗の聖騎士と称され、戦場を支配してきたはずの彼の灰色の瞳には、戦意など一片も存在しない。
そこにあるのは、虚無の果てに灯った、熱病じみた酩酊の光だけだ。
魔獣の太い首を泥臭く断ち切った瞬間、周囲を包み込む静寂の霧の中から、純白の聖衣を軽やかに揺らして一人の少女が姿を現した。
彼女の白金色の長い髪は緩い三つ編みにされ、泥にまみれた戦場にはあまりに不釣り合いなほど美しく輝いている。
吸い込まれそうなルビーレッドの瞳を、愛おしげに細めて彼女は微笑んだ。
セラフィナ・ルミナス「ああ、エルシド。今日もこんなにボロボロになって、私を求めてくれたのね。私の、愛しい可愛い壊れ物」
彼女の甘く、すべてを慈しむような声音が、凍てつく夜の空気に優しく溶けていく。
セラフィナ・ルミナスの細く、大理石のように白い指先が、エルシドの胸の中央、ちょうど心臓の直上にある古い傷痕へと吸い寄せられた。
その指先が、躊躇なく、今まさに真っ赤な血を激しく噴き出している引き裂かれた胸肉の奥深くへと突き立てられる。
エルシド・アズラエル「う、あ……! セラフィナ、ああ……、そこ、だ、もっと……っ!」
激しく脈打つ心臓に、彼女の指先から極上の冷たさを孕んだ魔力が直接流し込まれる。
指頭が肉の奥で、彼の剥き出しになった心臓の拍動を確かに捉えていた。
セラフィナ・ルミナス「そうよ、もっと鳴いて。私が優しく治してあげなければ、あなたは動くこともできない、ただの無価値なお肉なのだから」
《絶対治癒魔法》
ささやきと共に、セラフィナの細い掌から、どす黒いほどの深紅の治癒光が溢れ出し、裂けた傷口に文字通り牙を剥いた。
それは肉体を内側から強引に沸騰させ、引き千切れた細胞同士を無理矢理に結合させる、狂い死ぬほどの劇痛を伴う奇跡。
脳髄を白く焼き尽くすほどの劇痛の奔流がエルシドを支配し、同時に、侵しがたい極上の結合感が彼を内側から縛り上げる。
エルシド・アズラエル「君の光で満たされるためなら……っ、私は何度でも、喜んで引き裂かれる肉塊になろう……!」
引き裂かれた筋肉が生き物のように蠢き、砕けた骨が甲高い音を立てて接合し、生々しい皮膚が新しく創り直されていく。
彼女の指を依代として流れ込む魔力が、彼の精神の最も深い境界までを、決して解けない強固な鎖で縫い合わせていく。
血の混じった熱い吐息を荒く交わしながら、二人は世界から切り離されたかのように、ただ互いの存在に陶酔していた。
だが、その濃密な蜜月を切り裂くように、冷酷な白金の閃光が木々の隙間を縫って鋭く奔る。
聖なる光が二人を引き剥がすように割って入り、地面を激しく穿ち、立ち込めていた漆黒の夜霧を力任せに吹き飛ばした。
光の残滓の中から現れたのは、顔の右半分に酷い火傷の痕を残す、異端審問官バルザール・フォン・ドレッドだ。
バルザール・フォン・ドレッド「神聖なる帝国において、不浄の交わりを続ける魔女と狂犬。そこまでにしてもらおうか。その穢れた肉体をこれ以上晒すな」
彼の琥珀色の瞳は極度の理性の冷たさを湛え、その手に握られた巨大な光の十字剣が、夜の闇を不気味に白く照らし出している。
第二章: 不浄の烙印と剥奪

地下深く、光の届かぬ尋問室の空気は、冷たい石造りの壁に遮られ、不快な鉄錆と凝固した血の臭いだけで満たされていた。
エルシドは両手両足を重く冷たい太鉄鎖で拘束され、凍える石畳の上へと無様に這いつくばらされている。
衣服を容赦なく剥ぎ取られた彼の全身には、新旧入り混じるおびただしい数の傷跡が、醜く歪な模様のように浮かび上がっていた。
その絶望的な視線の先では、魔力を完全に封じる呪詛の鎖に繋がれたセラフィナが、冷たい壁に無理矢理押し付けられている。
バルザール・フォン・ドレッド「お前たちの行いは決して神の奇跡などではない。ただ神の法を歪め、互いの肉体を汚し合う悪魔の交わりだ」
バルザールが忌々しげに吐き捨てると同時に、審問官の鋭い光刃が、エルシドの両足の腱を正確かつ無慈悲に切り裂いた。
プツン、と肉の繊維と腱が千切れる嫌な音が静かな部屋に響き、エルシドの肉体が弓なりに激しくのけぞる。
喉の奥から押し潰されたような短い呻き声が漏れるが、その灰色の瞳には、絶望の泥など微塵も存在していなかった。
それどころか、バルザールは赤く焼き極められた無骨な鉄印を持ち上げ、エルシドの胸に刻まれた聖騎士の紋章へと力任せに押し当てる。
じゅう、と不快な湿り気を帯びた肉の焦げる白煙が立ち上り、鼻を突く凄まじい異臭が瞬時に室内に立ち込めた。
エルシド・アズラエル「はは……っ、熱い、な……。だが、バルザール、お前は本当に、何一つとして分かっていない」
バルザール・フォン・ドレッド「何だと……? 立つための腱を失い、二度と自力で歩けぬ体になってもなお、その目が死なぬとでもいうのか」
エルシドは焼き爛れ、煙を上げる胸を狂おしく震わせ、鎖に繋がれて身動きの取れないセラフィナを見つめて歪んだ笑みを浮かべる。
エルシド・アズラエル「この傷こそが、彼女が私を愛し、満たすための器だ。彼女の魔力だけが、私のこの醜い空洞を完璧に埋められる」
セラフィナ・ルミナス「そうよ、私のエルシド! 汚い男の鉄に汚されたそこを、私がもっと強く、もっと深く繋ぎ直してあげる!」
魔封じの鉄鎖を激しく軋ませ、自慢の三つ編みを泥に乱したセラフィナが、極上の獲物を見つけた獣のようにその瞳をぎらつかせる。
眼前に繰り広げられる、到底常軌を逸した異常な共依存の光景に、審問官バルザールの背筋に冷たい戦慄が走った。
バルザール・フォン・ドレッド「吐き気のする狂人どもめ。その魔女は明日、広場にて断罪の炎によって灰にする。お前は一人、この暗闇で朽ち果てるがいい」
冷酷な死刑宣告とともに鉄の重い扉が閉ざされ、地下室は再び、音のない完全な暗闇へと沈んでいった。
しかし、その静寂のただ中で、腱を切られて指一本動かせぬはずのエルシドの指先が、泥を這う蟲のように蠢き始める。
待っていてくれ、セラフィナ。今すぐ、その白く愛しい手で、私を何度でも壊して、何度でも生かしてくれ
彼の肉体の中に残存する彼女の極上の魔力が、裂けた腱の端々に呼応するように、暗闇の中で赤黒い輝きを放ち始めた。
第三章: 狂信の聖域

嵐が狂暴に吹き荒れる聖都の中央広場には、叩きつけるような豪雨と、天を覆い尽くす不吉な黒雲が重く立ちこめている。
広場の中心にそびえ立つ処刑台、その巨大な薪の山の頂に、硬く縛り付けられたセラフィナの姿があった。
バルザール・フォン・ドレッド「これより、神の尊き秩序を乱し、不浄を貪った異端の魔女を、断罪の神炎をもって浄化する!」
バルザールが燃え盛る松明を厳かに掲げたその瞬間、広場の入り口にある巨大な鉄門が、内側からの凄まじい衝撃音と共に吹き飛んだ。
轟音
爆煙の中から現れたのは、全身に千切れた鉄鎖を巻き付け、あらゆる傷口から泥と生暖かい血を絶え間なく滴らせたエルシドだった。
指先は地下牢の硬い岩壁を掻き毟り続けたために、生爪が剥がれて白い骨が露出し、引きずる両足からは赤黒い血の尾が伸びている。
バルザール・フォン・ドレッド「なぜだ……! 両手足の腱は私がこの手で完全に切断したはず! なぜその体で歩ける、なぜ進んでこられる!」
エルシド・アズラエル「彼女が、私を呼んでいる! 私の肉体が、彼女の甘い光を求めて、勝手に繋がろうとするんだ!」
バルザール・フォン・ドレッド「人の理を外れた異形め、その執念ごと神の光で灰になれ!」
バルザールの放ったまばゆい光の十字剣が、防備のないエルシドの胸、心臓のすぐ横を深く、容赦なく貫いた。
大量の鮮血が彼の口から噴き出すが、エルシドはその刃を自らの骨が露出した手で掴み、さらに胸の奥へと押し込んでいく。
エルシド・アズラエル「足りない、まだ足りない! もっと深く私を刻め! そうでなければ、彼女の極上の治療を、愛を味わえない!」
エルシドは驚愕に目を見開くバルザールをその超怪力で突き飛ばし、そのまま炎が燃え移りかけた処刑台へと高く跳躍した。
骨の露出した両手でセラフィナを縛る魔封じの鎖を掴み、自らの肉が摩擦で千切れるのも構わず、力任せに引きちぎる。
緊縛から解放されたセラフィナは、血まみれで崩れ落ちるエルシドをその細い腕で抱きしめ、恍惚とした歓喜の涙を流した。
セラフィナ・ルミナス「ああ、私のエルシド! あなたは本当に、私だけのもの! 私のために、ここまで美しく壊れてくれたのね!」
彼女が彼の血濡れた頬を両手で包み込んだ瞬間、神の断罪の光を完全に塗りつぶす、深紅の《因果の縫合》が世界に炸裂した。
不浄なる治癒の光が狂暴な津波となって広場全体を包み込み、激しく降り注いでいた嵐の雨さえも一瞬で蒸発させる。
エルシドの千切れていた指が、深く貫かれた胸が、一瞬にして、以前よりもさらに強靭な肉体へと強制的に再構成されていった。
エルシド・アズラエル「あああああっ! 素晴らしい、素晴らしいよセラフィナ! 体が、脳が、君の愛の光で満たされていく!」
バルザールは「神への冒涜だ、反逆だ!」と絶叫し、渾身の力を込めた断罪の炎を放つが、その炎すらも深紅の光に触れた端から分解されていく。
世界の理そのものが二人のためだけに書き換えられ、その周囲には誰も立ち入ることのできない、絶対の領域が完成していた。
光の渦の中心で、完全に再生を果たしたエルシドは、愛しいセラフィナの体を壊れ物を扱うようにきつく抱きしめる。
新しくなった彼の皮膚の下では、彼女の魔力の糸が、確かな、そして永劫の支配の証として、脈打つように蠢いていた。
セラフィナ・ルミナス「もう二度と、あなたを離さないわ。死が私たちを分かつことすら、私が許さない。私の可愛いお人形」
エルシド・アズラエル「ああ、セラフィナ。私のこの命も、痛みも、すべては君の指先、その掌の中にある」
血と不浄の光の雨が降りしきる中、二人はただお互いだけを見つめて微笑み合い、静かに、誰の手も届かない闇の彼方へと消えていった。