***第一章 未来からのダメ出し***
佐藤健太の人生は、ウケない冗談のように、スベり続けていた。
結成八年目のお笑いコンビ「アシンメトリー」。相方の亮介が感覚派のボケで、健太が理屈屋のツッコミ。その名の通り、二人の笑いは絶妙に噛み合っていなかった。今日のライブもそうだ。健太が練りに練った「素数と恋愛を絡めたインテリジェンスなコント」は、会場に宇宙空間のような静寂をもたらした。客席の最前列で腕を組む強面の男性客は、もはや哲学者のような顔つきでステージを睨んでいる。
「……だから、君の魅力は、1と自分自身でしか割り切れない、孤高の素数なんだよ!」
健太の渾身のツッコミは、誰の耳にも届くことなく、虚しく照明に吸い込まれていく。ああ、まただ。この、心臓が凍るような静寂。笑い声の代わりに、誰かの咳払いがやけに大きく響く。
楽屋に戻ると、亮介が「やっぱ、素数は難しかったかな」と屈託なく笑った。その能天気さが、健太の神経をささくれ立たせる。
「難しかったとかじゃない。構成の妙が伝わってないんだ。あそこの間(ま)をもう0.2秒詰めていれば……」
「健太、もうやめないか。そういうの」
亮介の目が、初めて真剣な色を帯びていた。解散。その二文字が、埃っぽい楽屋の空気中に、重く漂った気がした。
その夜、健太はコンビニのまずいビールを呷りながら、六畳一間のアパートで天井を眺めていた。夢を追いかける、なんて聞こえはいいが、現実はすり減るだけの預金通帳と、増えていく無力感だ。もう、潮時なのかもしれない。
その時だった。ピンポーン、と間の抜けたチャイムが鳴った。こんな夜更けに誰だ。怪訝に思いながらドアを開けると、そこに立っていたのは、小学校高学年くらいの、妙に大人びた目をした少年だった。
「どちら様で?」
少年は、健太を真っ直ぐに見つめて、こう言った。
「はじめまして、父さん。僕は未来から来た、あなたの息子です」
は? 脳が理解を拒む。少年は続けて、衝撃的な一言を放った。
「父さんがお笑いを辞めて、つまらないサラリーマンになる未来を変えに来ました。僕、父さんのファンなんです。未来では伝説の芸人だってことになってる……はずなんですけど、どうやら歴史が分岐したみたいで」
少年の手には、なぜか年代物のルービックキューブが握られていた。意味が分からない。あまりに突飛な状況に、健太はツッコむ言葉さえ失っていた。目の前の少年は、自分の人生における、最大のボケをかましている。しかし、その瞳は、嘘をついているようには見えなかった。健太の人生という名のスベりきった舞台に、とんでもない闖入者が現れた瞬間だった。
***第二章 三人目の相方***
少年はケンジと名乗った。健太の「健」に、未来を司る「司」。なんだかそれっぽい。健太は半信半疑ながらも、行く当てがないというケンジを追い出すこともできず、奇妙な同居生活が始まった。
ケンジの「未来からのダメ出し」は、容赦がなかった。
「父さんのツッコミは、頭で考えすぎなんだよ。もっとこう、魂の叫びみたいなのが足りない!」
そう言って、テレビの中のベテラン芸人を指差す。
「違うんだケンジ。あの人のツッコミは、長年の経験に裏打ちされた計算された『間』があって……」
「理屈っぽい! 父さんの悪い癖! だから未来で、僕の友達に『お前の父ちゃん、昔芸人だったらしいけど、クソつまんなかったらしいな』って言われちゃうんだ!」
ぐさりと、健太のプライドに言葉のナイフが突き刺さる。未来の息子にまでディスられるとは。
しかし、ケンジの存在は、健太の日常に奇妙な化学反応をもたらし始めた。
ある日、健太が次のネタ作りに悩んでいると、ケンジがカップ焼きそばを食べながら言った。
「父さん、こないだ道端でコケたとき、めちゃくちゃ面白かったよ。『うわっ、地球の引力が急に仕事し出した!』って言ったやつ」
「あれはただの独り言だ」
「ううん。ああいうのがいいんだよ。父さんの素の部分。カッコつけない、情けない部分が一番面白い」
情けない部分。それは健太が芸人として、最も隠そうとしてきたものだった。だが、ケンジの曇りのない瞳に見つめられると、自分の張っていた見栄のバリアが、少しずつ溶けていくような気がした。
相方の亮介は、突然現れた健太の「息子」に、最初は目を丸くしていた。
「え、未来から? 健太、お前、ついに頭が……」
しかし、三人でネタ合わせをするようになると、亮介は誰よりもケンジを気に入った。
「ケンジの言う通りかもな、健太。俺たちのネタ、最近キレイにまとまりすぎてた。もっとグチャグチャでいいのかも」
亮介のボケに、ケンジが腹を抱えて笑う。その笑い声につられて、健太も思わず頬が緩む。いつの間にか、埃っぽい練習スタジオに、今までなかった温かい空気が流れていた。まるで、ケンジが三人目の相方になったかのようだ。
ケンジのアドバイス――というよりは、無邪気な感想――を取り入れたネタは、小さなライブでこれまでとは明らかに違う手応えがあった。爆笑ではない。でも、客席からクスクスと温かい笑いが漏れ、空間が確実に和らいでいく。健太の理屈っぽいツッコミに、ほんの少しだけ「情けなさ」という名の人間味が加わったからかもしれない。
舞台袖で、ケンジが親指を立てて笑っている。その笑顔を見るたび、健太の胸の奥がじんわりと温かくなった。この子のために、面白い芸人にならなければ。未来を変えるとか、そんな大それたことじゃない。ただ、この子の期待に応えたい。健太の中で、芸人を続ける理由が、少しずつ形を変え始めていた。
***第三章 アシンメトリーな真実***
若手芸人の登竜門とされる、大きなコンテストの予選が迫っていた。優勝すれば、テレビ出演の道も開ける。これに落ちたら、もう終わりにしよう。健太と亮介の間には、そんな暗黙の了解があった。
「大丈夫だよ、父さんたちなら絶対いける!」
ケンジは自分のことのように興奮し、夜遅くまでネタ合わせに付き合ってくれた。彼の存在が、二人にとって何よりのカンフル剤だった。健太は、自分の芸人人生のすべてをこの舞台に賭ける覚悟を決めていた。
予選前日の夜。最終チェックを終え、健太がアパートに戻ると、見慣れない女性がドアの前に立っていた。隣には、俯くケンジの姿。女性は深々と頭を下げ、名刺を差し出した。そこには『児童養護施設 あおぞら園』と書かれていた。
頭が真っ白になった。
女性――施設の職員である彼女の口から語られた事実は、健太が築き上げてきたこの数週間の世界を、根底から破壊するものだった。
ケンジの本名は、ユウキ。彼は未来人などではなく、この施設の子供だった。両親はおらず、唯一の楽しみが、深夜にこっそり見るお笑い番組だったという。そこで偶然「アシンメトリー」を知り、数少ない、彼らのファンになった。
ある日、芸人仲間がSNSに書き込んだ「アシンメトリー、そろそろ解散かもな」という投稿を偶然見てしまったユウキは、いてもたってもいられなくなった。大好きな芸人がいなくなってしまう。その一心で施設を抜け出し、テレビ局の出待ちをして健太の住所を突き止め、やってきたのだという。
「未来から来た息子だって言えば、信じてくれるかなって……。お父さんを応援する息子なら、芸人を辞めないでくれるかなって……」
震える声でユウキが呟く。健太の足元が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
騙されていた。
その事実に、まずカッと頭に血がのぼった。俺の覚悟を、俺たちの夢を、子供のくだらない嘘で弄んでいたのか。
だが、怒りはすぐに別の感情に変わった。罪悪感と、どうしようもないほどの自己嫌悪。
俺は、未来の息子という突飛な設定にただ乗っかっていただけじゃないか。一人の少年の、悲痛なまでの純粋な願いに、気づこうともしなかった。彼が差し出してくれたファンレターを、自分勝手な脚本に書き換えて悦に入っていただけだ。
「……ごめんなさい」
ユウキの小さな謝罪が、健太の胸をえぐった。
何が伝説の芸人だ。何が未来を変えるだ。俺は、目の前にいるたった一人のファンの心さえ、まともに受け止めることができなかった。
健太は、何も言えなかった。ただ、唇を噛み締める。もう、お笑いなんて、どうでもよかった。舞台に立つ資格なんて、自分にはない。
***第四章 たった一人のためのアンコール***
コンテスト当日。楽屋の空気は、鉛のように重かった。亮介は何も言わず、窓の外を眺めている。健太は、衣装に着替える気力もなく、パイプ椅子に座り込んでいた。
「……やめよう、亮介」
健太が絞り出すように言った。
「俺には、もう笑いをやる資格がない」
「馬鹿野郎」
亮介が、静かに振り返った。
「資格なんて、誰が決めるんだよ。あの子はさ、俺たちのたった一人のファンだったんだぜ。未来から来た息子じゃなくて、今、この瞬間を必死に生きてる、たった一人のファンだ。俺たちは、その子に嘘をつかせちまったんだ。だとしたら、俺たちがやるべきことは一つしかねえだろ」
亮介の目が、健太を射抜く。
「あの子に、最高の笑いを届けて、俺たちのファンで良かったって、心の底から思わせてやることだ。違うか?」
その言葉に、ハッとした。そうだ。俺は何のために芸人になった? プライドのためか? 売れるためか? 違う。始めた頃は、ただ、誰かを笑わせたかった。たった一人でもいい。自分の言葉で、誰かの心を少しでも軽くしたかった。その原点を、ユウキという少年が、命懸けの嘘で思い出させてくれたんじゃないか。
健太は、ゆっくりと立ち上がった。
「……亮介。ネタ、変えよう。全部アドリブだ」
「アシンメトリー」の出番が来た。スポットライトが眩しい。客席の奥に、施設の職員に連れられたユウキの姿が見えた。俯いて、泣き出しそうな顔をしている。
健太は、マイクの前に立ち、深く息を吸った。
「どうもー、アシンメトリーです! いやー、実は昨日、俺のところに未来から息子が来ましてね」
亮介が驚いた顔で健太を見る。打ち合わせにない導入だ。
「そいつが言うんですよ。『父さんのツッコミは理屈っぽい』って。まいっちゃいますよね」
健太は、ユウキとの日々を、ありのままに語り始めた。カップ焼きそばの話、道でコケた話。それはもはやネタではなく、健太の告白だった。
「でも、気づいたんです。俺、ずっとカッコつけてたなって。情けない自分を隠して、頭のいいフリして。でも、一番面白いのは、そういうダメな部分だったりするんですよね」
亮太が、すっと隣に寄り添う。
「お前、今頃気づいたのかよ。俺は八年前から知ってたぜ」
会場が、どっと沸いた。
二人の掛け合いは、もはやボケとツッコミの応酬ではなかった。不器用な男二人が、互いの弱さを認め合い、それでも一緒に立とうとする、剥き出しのドキュメントだった。健太はツッコミの言葉に、初めて自分の魂を乗せた。亮介のボケは、そんな健太を優しく包み込んだ。
理屈を超えた二人の姿に、会場は爆笑の渦に包まれた。それは計算された笑いではない。人間そのものが持つ、愛おしさや滑稽さから生まれる、温かい笑いだった。
健太は、客席のユウキを見た。彼は、顔をくしゃくしゃにして、大粒の涙を流しながら、腹を抱えて笑っていた。その顔を見た瞬間、健太は悟った。ああ、これだ。俺が届けたかった笑いは、これだったんだ。
結果は、予選敗退。だが、二人の心は不思議なほど晴れやかだった。
終演後、ユウキが駆け寄ってきた。
「ごめんなさい、嘘ついて……でも、すっごく、すっごく面白かったです!」
健太はしゃがみこみ、ユウキの目線に合わせると、彼の頭を優しく撫でた。
「ありがとう。お前は、俺の未来の息子なんかじゃない。今、ここにいる、俺の最高のファンで、最高の相方で……最高の息子だよ」
ユウキの瞳から、また涙がこぼれた。
空を見上げると、都会のネオンが滲んで、まるで無数の星が瞬いているようだった。
健太は、芸人を続けることを決めた。売れるためじゃない。誰か一人の心を照らす、小さな光になるために。アシンメトリーな二人の舞台に、たった一人の観客が送ってくれたアンコール。その声が続く限り、彼らのコメディは、終わらない。
アシンメトリーなアンコール
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