第一章 汚れを見過ごせない男
「あのさ、そこ。邪魔」
俺、神城レン(かみしろ れん)は、眉間に皺を寄せてそう吐き捨てた。
視線の先にいるのは、全身から腐臭を漂わせる体長三メートルの巨人。
世間では『オーガ・ロード』とか呼ばれているらしい。
「グルァアアア!」
巨人が咆哮する。
唾液が飛んだ。
俺の頬に。
ピチャリ、と。
「……あ?」
思考が、凍りつく。
俺の手には、業務用の高機能モップ。
背中には、借金五百万の代わりに押し付けられた、自律型配信ドローン『ナビちゃん』が浮遊している。
『あーっと! 視聴者の皆様! 神城選手、いきなりボスの体液を浴びたァ! これは精神的ダメージが大きいか!?』
ドローンから脳天気な合成音声が響く。
空中に投影されたホログラムのコメント欄が、猛烈な勢いで流れた。
:うわ汚ねぇww
:初配信でこれは草
:Dランク探索者じゃ瞬殺だろ
:いや、こいつ掃除屋だぞ? 武器モップだし
:終わったな。南無
俺は震える手で、ポケットから除菌ウェットティッシュを取り出した。
頬を拭く。
一度じゃ足りない。
二度、三度。
皮膚が擦り切れるほど拭って、それでも許せなくて、俺は巨人を睨み上げた。
「お前……自分が何したか、わかってんのか?」
「ガァ?」
巨人が首を傾げる。
その薄汚い足が、ダンジョンの美しい大理石の床(俺がさっき磨いたばかりだ)を踏み荒らしている。
許せない。
生理的に、遺伝子レベルで、魂の底から。
「そこは土足厳禁だ」
俺はモップを構えた。
「消毒(クリーニング)、開始する」
第二章 世界のバグを修正します
『おいおい! 突っ込んだぞ!』
『死ぬ死ぬ死ぬ!』
ナビちゃんが騒ぐ中、俺は無造作に歩み寄った。
オーガ・ロードが丸太のような腕を振り上げる。
風圧だけで人が死にそうな一撃。
だが、俺にはそれが見えない。
俺の目には、あれは『腕』じゃない。
空間に付着した、巨大な『黒カビ』にしか見えていない。
「汚い」
一言。
俺はモップを、カビの根元――奴の肘関節あたりに滑らせた。
スッ。
手応えはない。
ホワイトボードの文字を消すように、軽い動作。
次の瞬間。
ズンッ!!
オーガ・ロードの右腕が、肘から先ごと『消失』した。
切断されたのではない。
最初からそこに何もなかったかのように、空間ごと白く磨き上げられている。
「ギ……ギャ……?」
巨人が遅れて絶叫した。
断面からは血も出ない。ただ、無機質なポリゴンのような光が漏れているだけだ。
:は????
:え、今なにが起きた?
:CG? ラグ?
:腕消えたぞ
:モップで撫でただけだよな?
『えええええ!? 視聴者数急増! 現在一万人突破! 神城さん、今のどうやったんですか!?』
「どうやったもなにも」
俺はバケツの水でモップを濯(すす)ぐ。
水が黒く濁る。
「頑固な汚れだったから、強めに擦っただけだ」
俺にとっては、このダンジョンの魔物たちはすべて『エラーデータ』であり『汚れ』だ。
俺の特異体質――『概念清掃(コンセプチュアル・クリーニング)』。
対象を汚れと認識すれば、物理法則を無視して拭き取れる。
俺は再びモップを構える。
「次は胴体だ。油汚れが酷そうだな」
オーガ・ロードが後ずさった。
食物連鎖の頂点に立つ怪物が、ただの清掃員に怯えている。
「逃げても無駄だ。俺は、部屋の隅の埃を見逃したことがない」
俺は一歩踏み込む。
縮地? いや、違う。
俺と奴との間の『距離』という概念が邪魔だったから、それもついでに拭き取ったのだ。
ゼロ距離。
「さあ、綺麗になろうか」
モップが一閃。
巨人の胴体が、頭部が、存在そのものが。
まるで濡れた雑巾で拭かれた窓ガラスのように、透明になって消えていく。
後には、ピカピカに磨かれた床だけが残った。
第三章 神話級の汚れ
『同接五万人!? トレンド一位!? ちょっとレンさん、とんでもないことになってますよ!』
「うるさいな。まだ掃除の途中だ」
俺は眉をひそめた。
オーガを処理したことで、ダンジョンの奥から嫌な気配が漂ってきたからだ。
空気が澱んでいる。
換気が悪い。
ズズズズズ……。
床が割れ、漆黒の闇が噴き出す。
現れたのは、五つの首を持つドラゴン。
ダンジョン最深部の主、『深淵龍(アビス・ドラゴン)』。
国家戦力級の化け物だ。
:うわああああああ! 深淵龍だ!!
:逃げろ! これはマジでヤバい!
:Sランクパーティでも全滅したやつだぞ
:掃除屋さん! 逃げて!
コメント欄が悲鳴で埋め尽くされる。
しかし、俺の目には違ったモノが映っていた。
ドラゴンの足元。
そこに落ちている、お菓子のゴミ。
「……誰だ」
俺の声が低くなる。
「誰だ、こんなところにポテチの袋を捨てたのは」
ドラゴンがブレスを吐こうと口を開ける。
その口腔内にも、食べカスのようなヘドロが詰まっている。
不潔だ。
不衛生極まりない。
このダンジョンは管理が行き届いてなさすぎる。
「ブォオオオオオ!」
黒炎が放たれる。
あらゆる物質を腐食させる死の炎。
だが。
「埃が舞うだろ」
俺はモップを回転させ、黒炎を『拭き散らした』。
炎が、ただのインクのように飛び散って消滅する。
:ファッ!?
:ブレスを……拭いた?
:物理法則仕事しろwww
:これもう掃除の域超えてるだろ
「そこを退け。お前の下にゴミがある」
俺はドラゴンに向かって指をさした。
「退かないなら、お前ごと『大掃除(オーバーホール)』する」
俺の殺気――いや、清掃意欲に反応したのか、俺の全身から青白い光が溢れ出す。
それは魔力ではない。
『清潔さ』を強制する、絶対的な秩序の光。
ドラゴンが恐怖で硬直する。
俺は高く跳躍した。
「ハイパワー・洗浄モード」
モップが光の刃と化す。
「消えろ、頑固なカビ野郎ッ!!」
振り下ろされた一撃は、ドラゴンの肉体だけでなく、その背景にあるダンジョンの壁、さらには空間の歪みまでもを一直線に浄化していった。
世界が、白く染まる。
最終章 配信終了(ログアウト)
光が収まると、そこには何もなかった。
ドラゴンも、瓦礫も、不快な臭いも。
あるのは、鏡のように輝く床と、一枚のポテチの袋だけ。
俺はポテチの袋を拾い上げ、携帯用ゴミ袋に入れた。
「ふぅ……。やっと綺麗になった」
額の汗を拭う。
これで今日のノルマは達成だ。
『あ、あの……レンさん……?』
ナビちゃんが震える声で話しかけてくる。
『コメント欄、見てください……』
:神
:これ現実?
:世界を掃除する者
:綺麗すぎて涙出てきた
:スパチャ(投げ銭)×500000
画面が見えないほどのスパチャの嵐。
借金など一瞬で消し飛ぶ額だ。
しかし、俺は溜息をついた。
「画面が文字で埋まってて、汚いな」
俺はドローンのカメラレンズを、指でキュッと拭った。
「配信、切るぞ。レンズの汚れが気になる」
『えっ、ちょ、待っ――』
プツン。
俺は数百万人が見守る配信を、唐突にシャットダウンした。
世界中がパニックになっていることなど知る由もない。
俺にとって大事なのは、名声でも金でもない。
「さて、次はあそこの染みが気になるな」
俺は静寂に包まれたダンジョンで、再びモップを握り直した。
この世界が、完全に『綺麗』になるまで。
俺の掃除は終わらない。